第1回、S・Sファイトクラブ「参加作品」
第一回FIGHT/テーマ「新」

「新しい」

作者・tokidoli


 半分だけ茹だった、卵が半熟卵だと知ったのは、いつだった?

 僕はそんな話を君にしてみたかった。





 おじが亡くなる直前になって僕を呼んだのは、僕が彼のたったひとり肉親と呼べる存在だったからであり。逆を言うならそう。僕にとっても肉親と呼べるのはおじくらいだった。
 僕は山の上の方に住むおじに会いに車をとばしていた。こんな山奥にこもっているのは「しがらみから逃れたいからだ」といつか言っていた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
 玄関に出たのはさやかさんだった。さやかさんは薄く笑った。髪はショートになっていた。出会った頃の長い髪はやめていた。
 彼女は黒のタートルネックのセータを着ていた。
 以前会った時の軽快な笑いはなくなっていた。淡い微笑だった。

「こっちよ」

 大きな平家だ。廊下を通り部屋へと通される。
 畳に置かれた介護用のベッドに半身を起こし半熟卵を食べるおじの顔を見ながら僕はただ椅子に座っていた。
 籐の椅子だ。
 おじは痩せてしまっていた。
 小太りだったおじの。痩せ方。
 話には聞いていた。少し病気なのだと。
 ここに移り住んだ頃の事だった。ぼんやりと思い出してた。
 部屋の中には電気の暖房具が置いてあり、おじは背を丸め、介護用のベッドに半身を起こしていた。薬のにおいがした。 淀んだような空気に息をつめた。
「卵は半熟のときが一番栄養の吸収がいいのよ」
 さやかさんのやさしい穏やかな声。半分だけ食べてある卵とお茶の入った湯のみとがサイドテーブルの上にあった。
 病院へは行ったのかと聞こうとし、やめた。お加減はいかがですかとか。
 通りいっぺんのことを口に出しかけてやはりやめた。

 代わりに黙りこんだ。居心地が悪い。
「どうした?」
 おじが言った。
「いえ」
「ダイエットしてしまったんでな、驚いたか?」
 笑った。
 うまく直視できなかった。
 おじはもう自分が余り長くないと分かっているのだった。
 窓をあけましょうかとさやかさんが独り言のように言い、そろそろと立ち上がった。
 僕はそちらを見た。

 僕が大学を卒業した頃のことだ。僕はおじの家に招待され、さやかさんに出会ったのだった。
「新しい半分なの、わたし」
「新しい半分?」
「そう略して新・半分。英訳してみて」
「……ニューハーフ」
「そう」
 声は確かに低めで、のどぼとけも出ていて。けれども綺麗な。笑顔。
 おじは困ったように笑っていて。
 茶目っ気たっぷりだった「彼女」の、そしておじの生涯でたぶん一番幸せだった「時間」を僕は確かにあの時見たのだった。

 なぜかひどく泣きたくなった。

 窓が開いた。
 少し冷たい、けれど春の風が入り込んでくる。


「半分だけ茹だった卵が半熟卵だと知ったのは、いつだった?」

 僕はそんな話をしてみたかった。軽く。
 けれどそんな言葉は口にすることができなかった。


 重い空気が春の空気と入れ代わっていく。
 新しい空気と古い空気。
 死と生。

 生きる事と死ぬ事の間と。この時間の長さと。


「遺言を作ろうと思っている」
 おじは言った。
「そうですか」
 僕は答えた。
 さやかさんの肩がびくりと震えた。
 何かに耐えるようにしばらくそのままでいた。
 僕はそれを見、視線をおじに移した。
 おじはどこを見るでもなくサイドテーブルからお茶を取った。
 僕はそれを見ながら、さっき考えていたことを。永久に言う機会をうしなったのだと気付いた。


「さやかに新しい生活を保証してやりたい。俺の身寄りはお前だけだからな。相談しようと思ったんだ」
 おじはいつだって前を向いて、新しい事に向かって疾走しているような人だった。
「僕は、いいですよ。おじさんの好きになさって下されば」
 ひくりと、しゃくりあげる息の音がひどく大きく響いた。
 窓枠に手をかけて、さやかさんがそちらにのりだすようにして、背を向けていた。
 泣いているのだと。分かった。

「明日、弁護士が来ることになっている。良かったら泊まっていってくれ」
 おじがそう言う。僕は黙ってうなずいた。


 おじが亡くなったのはそれから一月もしない五月。

 
 それからしばらくして。彼女は上京してきた。
 彼女は僕のことを知りたいと言った。僕も彼女の事を知りたいと思うようになっていた。
 新しく始まった共同生活。イトナミ。

 彼女は僕の中に時々おじを見つけてはふさぎ込んだがそれもすこしずつ収まっていった。
 僕は卵ならかたゆでがいいと思いながらも彼女の作った「半熟卵」を食べた。

 美味しかった。

あとがき = 読んでくださってありがとうございます。


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