第1回 Short Story FIGHT CLUB 「金賞」受賞作品 |
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第一回FIGHT/テーマ「新」 |
「HUNGER」
作者・KOZY
漆黒の闇の中、男は飢えていた。
狂おしいまでの飢餓感。それが延々と続いている。
いつからだろう? この灼熱とも言える喉の渇きは?
ジェイは呻きながら、手探りで洗面所へと這うようにたどり着いた。蛇口から細々と出る水は赤く変色し、錆の臭いが鼻をついたが、かまわず直接口を付けた。
次の瞬間、全身を駆けめぐる凄まじい激痛に、ジェイは絶叫した。水を吐き出し、大きく身体を反り返らせる。どう力を入れたのか、陶器製の洗面台が粉々に砕けた。床に崩れ落ちながら、意識を保とうと必死で唇を噛む。
飲んだのは水だったが、まるで溶けた鉄でも流し込まれたようだったのだ。内蔵が焼けただれ、全身の血液が蒸発してしまいそうに感じられた。今の彼にとって、水は毒以外の何物でもなかった。
ふいに、記憶がフラッシュバックする。
闇のごとき黒い姿、光を放つ白い牙、そして魅惑的に流れる赤い血。
気がつくと、自らの手を見つめていた。洗面台を砕いた際に傷つけたか、血が滲んでいた。
「おまえには素質があるようだ」
美しい女の首筋に牙をたてながら、黒い男は言った。その後のことは…憶えていない。気がつくと、監獄のように狭い自分の部屋で飢えていた。
黒い男が何者であったのか、考えるゆとりはなかった。赤い誘惑の成せるままに、おのが手に自らの牙を突き立てていた。
何ともいえぬ芳醇な香りと、甘さと鉄分の渋みを兼ね備えた味覚が、彼を恍惚感で包み込んでいく。
夢中になり、手の肉を噛み破ってしまう。鋭い痛みがジェイを現実に引き戻す。そして気づいた。
飢えは少しも収まっていない。飢餓感はむしろ高まっている。血の味を知ってしまったがゆえに。自らの血の循環では、とうてい飢えを癒すことなどできないのだ。
血を…新鮮な血を!
声にならない叫び声をあげた。哀切で悲痛で、そしてわずかに喜悦の入り交じった…。
暗い洗面所に跪きながら、ジェイはもはや後戻りできない身体になっている自分の運命を悟り、長い時間身動きすらしなかった。
身支度を整え、ジェイは人気のない夜の街へとよろめき出た。傷つけた手はスカーフを巻いただけだ。
時刻は午前3時を回っていたがまだ暗く、いつものように霧が漂っていた。白の合間から青いガス灯が、もの悲しい明かりをレンガ敷きの道路に投げかけていた。
貧民街の細い通りをいくつも抜けていく。人通りはまったくない。手の中でカチッと打ち鳴らす音。血を吸った瞬間から、牙とともに急速に伸びた鋭い爪であった。振るえば、人間の肉など容易に切り裂くことが出来るだろう。
スローターハウスと食肉市場の並ぶ通りを足早に抜ける。従業員はいるだろうが、獲物はやはり女の方がいい。
目の輝きが鋭さを増した。地下鉄の駅の手前、裏通りに入ったところで獲物を発見したのだ。こんな時間に通りに立つ女の職業はひとつ。売春婦だ。
女を誘って、背後から爪で女の喉を掻き切ったのは、片側が倉庫、反対側が商人のテラス・ハウスという小路だった。売春婦は40歳をとうに越えているように見える中年女だったが、気にしなかった。死んでしまえば、皆同じだ。
悲鳴をあげることも出来ずに絶命した女を抱き止め、ジェイは彼女の喉に牙を立てた。
鮮血には相当なアルコール臭が混ざっており、決してうまいとは言えなかったが、それでも全身に歓喜のエネルギーが満ちあふれるのを感じた。恍惚感に打ち震えつつ、さらに爪を振るうと、首がちぎれかけた。噴き出す血に興奮し、女の下腹部に爪を刺し通す。
その時、何かの気配がジェイの身体を反応させた。女を放り出し駆け出す。走りながら振り返った先には…。
馭者?…その小さなシルエットは、確かに辻馬車の馭者のように見えた。
飢えを十分に満たせなかった彼は、それから1カ月の間に3人の獲物を手に掛けた。が、その成果はわずかに肝臓ひとつきり。しかも警察の警戒が厳しくなってきていた。しばらく行動を控えなければならない…。
1カ月後。すでにもう自身を抑えられないところまで追いつめられていたジェイは、必要に迫られ、ある考えを絞り出していた。
今までは野外で獲物を始末していたため、発見されやすかったのだ。それなら、室内に連れ込めば…。
ジェイは満足していた。目の前のベッドには、足をだらしなく開いた女が血まみれで息絶えている。今までの獲物と比べ、格段に年齢が若く血液も新鮮だった。
顔は無かった。興奮のあまり、メッタ切りしてしまったのだ。首と胴は皮一枚でつながっているだけで、腹部は切開され、内臓は取り出されてテーブルに置かれていた。
血糊のベッタリついた服を脱ぎ捨て、暖炉に投げ込んで燃やした。女の情夫の服があるので、帰りの心配はない。全裸になり、そのまま血の海にまみれ、至上の喜びを満喫する。
飢えは、満たされた。
血に包まれて、満足げに横たわる。だが…。
あまりの幸福感が、彼を眠りの淵へと引きずり込んだ。
苦しさに寝返りをうったとき、彼が見たのは、窓から差し込む霧越しの朝の光だった。とっさによけようとして、ジェイの身体は硬直した。窓の桟が十字の形に照らされて、彼を呪縛したのだ。
絶叫をあげる間もなく、ジェイの身体は苦悶の表情そのままに、ボロボロと崩れ落ちた。さらに、破れた窓から吹き込んできた11月の冷たい風は、崩れた灰を飛ばし、どれがジェイの一部であったか分からないような状態にしてしまった。
最後に彼の胸に去来したものは何であったか。過去の記憶か、自らの運命への怨嗟か、それとも…。
朝霧の中、小さな影が通りを横切っていく。繋がれていた2頭建ての辻馬車に飛び乗った。
「伯爵様」
せむしの馭者が声を掛けると、後ろから変にくぐもった、それでいて威厳に満ちた声が響いた。
「滅んだか?」
「はい。私思いますに、やはり新人教育は必要ではありませんかな? ずっとあやつを見張っておりましたが、血族としての知識を何も知りませんでしたぞ」
「素質はあったのだがな。しかし、面倒なことよ。ワシが、新人の教育だとは…」
「それも新しい血を取り入れ、伯爵家を存続させんがため…」
「わかっておる…ひとまず城に帰ることにしよう。この街はどうも性に合わん」
馬車が走り去った後、そこには白い霧がただ渦巻いているばかりだった。
この朝、灰となった男が、1888年ロンドンはホワイトチャペルにおいて、5人の売春婦を虐殺した連続殺人鬼として、以降数百年を経ても語り継がれることになろうなどとは、さすがの伯爵も想像できなかったに違いない…。
END
付記:被害者の室内における描写の一部は、著者の創作です。
あとがき =本作をお読みいただいて、ありがとうございます。「不慣れな新人の悲劇」といったところでしょうか。最初に書いたものは字数を大幅にオーバーしていたので、中間部をバッサリカットしました。そのことによって、史実との摺り合わせが、やや薄れてしまったのが残念ですが…。主人公の正体については、はっきり明かした1文を書くかどうか迷った末に削りました。それが正解だったかどうかは、読む方のご判断にお任せということで。伯爵の正体についても、それは同じです。最後に、この作品で少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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