第1回
Short Story FIGHT CLUB
「銅賞」受賞作品
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第一回FIGHT/テーマ「新」

「新湯」

作者・oriby


 土手瓦汢吉(どてがわらぬたきち)の所有する敷地は湯布院町からきっかり道路一本分外れている。その道路は私道で、所有者は土手瓦得手吉。最近料金の安さと手軽さで人気の『湯布院ゆ〜ゆ〜らんらん』の経営者である。であるから、正確な表現で記すならば、汢吉の所有する土地は、湯布院町に隣接している。隣接しているが湯布院町ではない。汢吉は苦々しく思っている。だが、そのことが汢吉を無形の怒りに駆り立てているわけではない。住んでいる場所よりも何よりも、得手吉が持っていて自分が持っていないものが存在するのが許せない。汢吉と得手吉は従兄弟同士である。経済的には汢吉も得手吉に負けない程度の成功は収めている。クローン豊後牛の牧場が軌道に乗っているのだ。安価で良質の牛肉の大量生産が汢吉を久留満寿村一番の長者に押し上げた。その汢吉が喉から手が出るほど欲しいものがある。得手吉が持っていて汢吉が持っていないもの。良質の温泉である。
 汢吉は妻の喜千代の尻を撫でながら広大な土地を見下ろしている。成金趣味丸出しの自宅の天守閣に陣取っている。どれもこれも似たりのよったりの牛たちがうろうろと闊歩していているそんな敷地の中を1台のベンツが近付いてきた。「誰が来るの?」喜千代が艶かしい声で尋ねる。「掘師よぅ」汢吉はうめくように答えた。その股間には喜千代の指が伸びている。「堀師?」喜千代の眉が動く。「そうよ。望んだものを掘り当てるという伝説の堀師じゃ。ルルドの聖泉を導き出したのも彼の一族ちゅうことじゃ。闇の世界では知らぬものがいないほど有名な存在らしいわ。連絡を取るのに随分と金を使ったわい」ずぶりと汢吉の指が喜千代の陰部に埋まる。「ひっひっひ。じゃけど、ここを掘るのはわしのも負けんぞ」喜千代が悶絶する。嬌声に汢吉は目尻を下げ、嗤った。
 堀師は堀部と名乗った。「若いということに不安を抱いていらっしゃるようだが、堀部一族のことはエージェントからお聞きになっているでしょう?」二十代前半の若い男だった。「まあ、そりゃそうやけどな」と頷いたあと、汢吉はすぐに考えを改めて口にした。「すまん。さっそく本題に入るんやが、掘り当ててもらえるんじゃろうな?」
「土手瓦さんの欲するもの、掘り当てたいものを聞かせていただければ」
「それはもう決まってるわい。得手吉のとこの湯に負けない、新しい温泉ぢゃ!」
「あなたが強く願えば、その願いに土地が応えてくれることでしょう。ここはあなたが思っている以上にあなたに属する土地なのですから」
「ただの温泉ではつまらんぞ。不老不死の効能を! 若返りの効能を!」汢吉は口の端から泡を飛ばしながら浮かされたように口走った。「あなたが本当に願うのなら。心のそこから本当に願えるのなら、叶うかもしれない」堀部は端正な顔立ちを醜く歪めて笑った。
 翌日。堀部が示す場所に掘削機を据え付けてボーリング作業が始まった。堀部が無造作に選んだとしか思えない仕種で白木の杭を打ちつけるのを見て誰もが半信半疑であった。しかし、二十メートルも掘り進まないうちに皆が一様に驚きの声をあげた。泉源を掘り当てたパイプから蒸気が吹き上げたのである。即座に分析班が含有される成分を調査した。泉質はラドンを含有しているのが特徴で、ラドン泉にしては珍しく泉色は白濁。ただし、これといって目新しい成分は含まれていなかった。汢吉は眉を吊り上げたが、堀部は清々しい笑みを見せるだけであった。当初の目的は果たしたのだから汢吉は渋々と堀部の背を見送るしかなかった。
 二週間の突貫工事で小さな温泉場が誕生した。汢吉としては「湯布院ゆ〜ゆ〜らんらん」に匹敵する規模のものを作りたかったのだが、この新しい温泉にそこまで賭ける気は毛頭無かった。宿の名前には地所の地番を入れることにした。派手な看板が製作され、それには「新湯! 尊肥の湯」と明記された。地所の地番を村役場で確認すると「久留満寿村大字尊肥」となっていたからである。
 客は来なかった。湯布院に隣接しているといっても地図上でというに留まる立地なのである。当たり前といえば当たり前であった。だから最初に「尊肥の湯」に浸かったのは人間ではなかった。
 東京からやってきたという犬好きの老夫婦が犬を連れて入ることのできる温泉を捜し求めてここまでやってきた。犬は衰弱しきっており、ともすればすぐに糞尿を垂れ流してしまう。汚臭が夫婦と犬をうっすらと包んでいた。宿の主人はどんな生物でも温泉に入れるように言い含められていたので、この小汚い身なりの一団を笑顔で迎え入れた。即座に奇跡は起きた。犬は元気に吠え走りまくりとても老衰で死にかけていたとは思えない有様であった。老夫婦も十歳は若返ったろうという面持ちで、糞尿臭さはすっかりと失せていた。驚愕の事実は老夫婦の快諾を得てネットや様々な媒体で全国に告知された。宿はたちまち瀕死のペットを連れた客で満杯になった。近くの「ゆ〜ゆ〜らんらん」ですら「尊肥の湯」に入浴する為の客で埋まった。だが、1台の車が玄関に到着してから事態は変わった。
 車から降り立った一団は賑わう宿のフロントを凍りつかせるほどのものだった。宿の主人はさすがに人を判別する能力に長けており、即座にこの宿を繁盛させるきっかけになった老夫婦ということがわかった。ただ、主人の能力をもってしても辛うじて気がついたにすぎない。それほど風貌が変わっていた。汚臭を克服した老夫婦が腐臭にまみれて帰ってきたのである。あの犬はもげた後ろ足を口に咥え、不気味に唸りながら後をついてきていた。老夫婦の有様はさらに壮絶であった。顔面の皮膚は剥がれ落ち、骨と皮どころか腐れた筋に辛うじて繋がっている四肢がぬたくたと動いている。眼球は萎んで眼窩から蛆をこぼし、足元に成分不明の緑色の粘液を滴らせている。腐乱した死体と遜色なかった。いや、死体そのものだといってもいい。それがのたりくたりとフロントへ向って歩いていくのである。たちまちモーゼの奇跡のごとく人垣が分かれた。老夫婦は入浴料500円を3人分カウンターの上に置くと湯場を目指して歩いていった。それを止めるものは誰もいなかった。
 事の異常の重大さに気付いたのは毎週のように通っている老人たちだった。彼らは比較的近隣の地域から通ってくる。それでも週を空けてしまうと体調が悪化するのがわかる。もし、何ヶ月間も「尊肥の湯」に入浴することができなかったら……。彼らに答えはわかっていた。腐肉浮かぶ新湯に我慢して浸かるしかなかった。そうしなければ、明日は我が身だと承知していた。
 汢吉にも漸く事態が飲み込めてきた。しかし、臆することはなかった。湯は無尽蔵にある。尽きることはない。ルルドの泉を見てみろ! 問題はない。汢吉は逞しく火照った下半身を見つめた。汢吉もまた「尊肥の湯」の恩恵を受けていたのである。「金が続く限り湯に浸からせちゃんわ。だが、金が尽きたら追い出すけんのぉ!」宿の主人はその命に従うしかなかった。彼もまた湯の虜になっていたのである。
 日々湯に入りきれずに腐っていく人やペットが久留満寿村を覆い尽くし、死んでいるのに死にきれず溢れる新湯の一滴に群る。その中に得手吉の姿を見出した時、汢吉はなんともいえない嗤いを見せた。
 かくして、この新しい温泉は生ける死者を育む聖地となったのである。


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