第1回、S・Sファイトクラブ「参加作品」
第一回FIGHT/テーマ「新」

「卒業」

作者・松浦 由香


 彼は不可解な顔を彼女に向けた。彼女はいつものような笑みと、いつものような言葉を綴ったのだ。
「卒業って、いい響きだよね?」
 彼の中で、【やはりこいつはおかしい】の文字だけが浮かんだ。
 三年生が声を殺してすすり泣いている卒業式の会場の、在校生を代表して裏方をしている二人。他にもいるのだが、今、この裏も裏、体育館の出口に立っているのは二人だけだった。
 まだ春は浅く、昨日まで降っていた雨の所為もあって、空気は澄んで寒く二人の側に居る。
「卒業って、いいよね。」
 彼が首をすくめ、身震いをしたとき、彼女がそう言って笑ったのだ。
 同じクラスの、卒業式運営委員に無理から選ばれた二人。ただ単に、じゃんけんで負けたのだが、思いの外、この仕事が大変で、彼は卒業式に【いい響き】など感じては居なかったし、もし、普通に式に出席していても、そう思わなかったはずだ。
 彼は心持ち頭一つ小さい彼女をもう一度見た。
「何?」
 彼女は笑顔で顔を見上げて微笑んだ。
「否、さっきの、いい響きの、意味。」
 しどろもどろなのは、寒さの所為で、決して、彼女に好意があるわけじゃない。第一、彼には好きな人が居た。はっきりと振られたのだが、今日卒業する先輩だ。綺麗な人で、優しくって、誰からも好かれていたから、やはり彼氏が居たのだ。
「ああ、卒業? 思わない? 卒業ってさぁ、新しいことを始める区切りでしょ?」
「終わる区切りだろ?」
 彼女は指を一本立て、彼の目の前で左右に振った。
「ちっちっち。そんな後退的じゃだめよ。前向きに行かなきゃ。歌にあったでしょ? 【さよならは別れの言葉じゃない】って。その通りよ。さよならなんて【また明日逢おうね】とか、【じゃぁ、家に帰ってから電話するね】の意味を含んでいる、いわば大きな代名詞よ。本当は接続詞らしいけど。でも、でも、さようならって言葉にはいろんな意味が含まれている。それに近い卒業だとかって言葉もそうだよ。卒業するから淋しいんじゃない。その後で、一人で社会人する子、大学行く子、友達と離れるから淋しいと思うのであって、卒業が悲しい訳じゃないわ。ただ単に、その時のさようならが卒業という代名詞を使っているだけで、卒業したって、友達には会えるし、親にだって、家に帰れば逢えるもの。」 彼は黙った。彼女とこうして話すことが初めてなのもそうだが、彼女の話す言葉に自分が納得し、告白した先輩のことをどこかで、悲恋的に思っていたことがすっと軽くなった気がしたのだ。
「卒業しても、友達は友達。それで逢えなくなるようなら、それは、それだけの友達だったってことでしょ? そんな友達かしら? って聞かれたら、そんなこと無いって、言えるでしょ? だったら、淋しくもないし、また逢えるような気がするだけで、そう、今度はいつ逢おうか? って想像するだけで楽しいじゃない。だから、卒業って楽しい気分になるのよね。」
「楽天、的だな。」
「よく言われるわ。でも、後退的よりも、よほど私らしいと自負しているけど。」
 彼女はからからと笑った。
 彼は呆気にとられながらも彼女を見下ろしていた。
 その時、どこからだろう、桜の匂いが漂ってきた。彼女もそれに気付いたのか辺りを見て指を指した。
 校庭の奥に植えている桜が今満開で、見頃を迎えている。
「桜だぁ。桜餅食べたくない?」
 彼女の言葉に、彼は再び呆れたが、彼は思った。【今まで桜なんか、気にもしなかったのに、妙だな】っと。
「桜餅の葉っぱって食べる?」
「は?」
 思わず声が出てしまった。今まで声など出さずに、ただ怪訝そうな顔をしただけだったのに。そしてその瞬間、彼は彼女のペースにはまっていることを悟ってしまった。
「桜餅の葉っぱ。そりゃ、あの、プラスチックはだめだけども、塩漬けした桜の葉は美味しいよね?」
「そうか?」
「食べない?」
「ああ。じゃぁ、柏餅の葉っぱ、食べるのか?」
「あれは食用じゃないもん。あれは香り付けだけ。」
 ただ、話題を切りたくて、意地悪で言った言葉を、彼女は、彼女らしく笑って答えてくれた。機嫌など一切害してない。
 彼は体育館が賑わってきたのを確認して扉を開けた。
 卒業生が退場し、父兄が退場、在校生も出て行って、ひとまずクラスに帰った彼らも、帰宅する前には、体育館の掃除に再び体育館に入った。
 がらんとした体育館内に、椅子を片付ける音と、マットを折り畳む音が響いていた。
「ねぇ。」
 彼女がモップを持って、五、六個の椅子を持ち運ぼうとしている彼の側に来た。
「帰りに、桜餅食べに行かない?」
「桜餅?」
「じゃぁ、柏餅。」
「なんで、そう甘いんだよ。」
「解った。じゃぁ、蜜豆? 寒いからおぜんざいがいい?」
「だから、なんで、甘いものばかり……。あ、ああ、いいよ。」
 彼はそう言って目を伏せた。彼女が満面の笑みで、モップをついていく姿を、きっと、笑顔で見ていそうだった。

 彼女の笑う顔が見たい。
 少しすねて膨れた顔も、それはそれでいいのかもしれない。
 でも、泣き顔は見たくない。
 そう思ったら、もうすっかり、俺は、彼女を好きになっていた。
 そう考えたら、卒業も少しは【いい響き】に思えてきた。

あとがき =私は桜餅の葉っぱを食べます。美味しいですよね?そう思いませんか?


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