第1回、S・Sファイトクラブ「参加作品」
第一回FIGHT/テーマ「新」

「新しい自分を見つけにいくために」

作者・T−Ben


人がまばらにしか降りない小さな駅から徒歩七分。薄暗く街灯がともり始めた路地裏を
男が歩いている。髪をきっちりと横分けにして銀縁の眼鏡をかけ、鼠色の背広に茶色の
コート。そのポケットに手を突っ込み鞄を小脇に抱え背中を丸めてゆっくりと足を進め
る。小さな紙にプリントアウトされた地図を何度も見返しながら辿りついた先は古ぼけ
た木造のアパートだった。
103号室をノックする。
何も返事がない。男は覗き穴の前に持ってきた地図をさしだした。しばらく間があった
後、鍵が開いた。
中から出てきたのは七十歳近いだろう、白髪を短く刈り込んだ不機嫌そうな顔をした老
人だった。無言で部屋に入るように促された男はあたりの様子を確認しながら戸を閉め
た。
2DKの室内には老人の一人暮しらしく、質素で余分なものはなにもない。ただ、和室
の畳の上のちゃぶ台の上に置かれたノート型のパソコンだけがとても違和感を発してい
た。
「もっとお若いかと思っていました…。まぁ、依頼を受けていただければこちらとして
は誰でもかまわないのですがね…」
男は、そう言って鞄の中から茶封筒を取り出した。
「五百万あります。これで新しい自分を買いたいのです」
老人は黙ってパソコンのモニターに向かい、キーボードをたたいている。
画面には男から送られてきたメールが映し出されていた。
――某掲示板でそちらの存在を知って半信半疑でメールいたします。新しい自分になる
ことができるという話。大変興味深く拝見しました。詳しいことが知りたいのでこちら
へメールしていただけるでしょうか………。
――さっそくメールを送っていただきありがとうございます。本当に本当に全く他人に
なることができるのでしょうか。信用してもよいのでしょうか…。もっと詳細を知りた
いのです。真剣なのです。お願いします。
――そうですか…。そんなにお金がかかるのですか…。会社に入って二十年近くになり
ます。結婚もして子供も生まれ昇進もしてまわりからみたら平凡に幸せな人生かもしれ
ません。しかし、疲れてしまったのです。毎日のルーティンワークに追われる日々に…。
会社は辞めるつもりです。その退職金で、足りない分は借金をしてでも払うつもりです。
どうかお願いいたします。
老人は、視線をモニターからはずした。
男はじっと老人をみつめている。
「本当に後悔はされないのですな」
老人が口を開いた。その声はしわがれて聞き取りにくいところがある。
男は黙したまま強くうなづいた。
そして封筒から現金の束を取り出した。
「おねがいします…」
ちゃぶ台の上に五つの札束が置かれた。
「わかりました…」
老人はパソコンを閉じ、畳の上に下ろした。代わりに懐からうすい紙切れを取りだし置
いた。
和室のちゃぶ台の上に置かれた現金と紙切れ一枚。差し向かう男と老人。契約の儀式め
いた緊張が部屋に流れる。
契約は成立した。老人の元には札束が、男の元には紙切れが渡された。
「こ、これは?」
男は紙切れを開いて声を出した。それは住民票だった。そこには男の見たことのない名
前が書いてあった。
「いまから、これがあなたの住民票になります。これがこれからのあんたのすべてだ。
こんな紙切れ一枚でと思うだろうがね、この世の中で自分を証明するものなんかこんな
ものさ。これを頼りに原付オートバイの免許をとるといい。1日ですぐにくれるからね。
免許証さえあれば普段の身分証明には事足りる」
そして、老人は札束を一つだけ残して男に返した。
「さぁ、これを持っていくがいい。とりあえず金がなくては何も出来ないだろう。…
さぁ、これで用は済んだろう。早くここを出て行くがいい。そしてすべてを忘れてしま
え。今までの自分を捨て去り、新しい自分となって生きていくんだ」
「は、はい!」
男は、紙切れと現金を手にして部屋を飛び出た。
ちゃぶ台の上には百万の札束一つ。
一人だけの部屋の中老人は再びパソコンを開いた。
メールをチェックしている中に、一つ気になるものがあったようだ。
――某掲示板を見てメールをいたしました。人探しをしていただけるということで、う
ちの主人を探して欲しいのです。ある日突然会社辞めて失踪してしまったのです。書き
置きには、新しい自分を見つけに行くとただ一言だけ。名前、住所、会社など詳しい情
報と一緒に写真を添付しておきます。
老人は、その写真を見てにやりと笑った。
――メール届きました。依頼受けさせていただきます。

あとがき = 一時、自殺する方法とかのマニュアル本が流行っていたときに、中年男性のための失踪マニュアル本に書いてあった方法をそのままネタにしました。


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