第1回、S・Sファイトクラブ「参加作品」
第一回FIGHT/テーマ「新」

「電話」

作者・カナメ


 扉をばったんと勢い良く閉じると、靴を蹴り脱いで冷蔵庫に突進した。グラスを氷でいっぱいにして、水のボトルを掴み出す。そして足で蹴って扉を閉めると、また大急ぎでソファーに向かう。
 電話が来るのだ。

 一週間前、言い出したのは私だった。
「あのね、もう来ないから」
 あの人は一瞬揺れて、それからゆっくりと身体ごとこちらに向いた。そして、あの透明な眼差しで暫く私を見つめてから肯いた。
 そうして、別れた。

 ばふんとソファーの上の羊に飛び乗る。それからグラスと水のボトルを置き、握り締めていた鍵を放り投げる。がしゃりと落ちたスヌーピーのホルダーに付いた鍵は3つ。この部屋の鍵と建物の入口の鍵と、それからあの人の部屋の鍵。知らない振りをする。次は背中を温めていたバックパック。中で包装紙が変形する音がする。買って来ていたのは物を捨てる方法の本。今は、まだ、いい。最後に汗をかいて身体に貼り付いていた服を脱ぎ捨てる。上着もシャツもパンツも靴下も。誰にも咎められないから抜け殻のように脱ぎ捨てる。

 あの人の家を泊まらずに出てきた次の日、電話が鳴った。泣き過ぎて膝を抱えてぼおっとしていた時の不意打ちだった。3センチほど飛び上がらされた腹癒せに、20コール数えた所で受話器を上げた。
「…元気か?」
 …あの人。電話なんて嫌いなくせに、馬鹿みたい。うん、と答えたら、そうか、じゃあな、と云って切れた。その次の日、同じ時間にまた、電話が鳴った。ベッドに潜り込んで本を眺めていた時だった。
「食べてるか?」
 そのまた次の日、まったく同じ時間に、また電話が鳴った。楽器を下ろして時計を睨んでいた時だった。
「昨日のETVを観たか? お前の好きな演奏家が出てたぞ。流石に上手かったな」
 知ってる、観た。凄かったから触発されて、今そのメンコン弾いてる。でも何だか上手く音が出ない。頭の中でだけ言葉がぱらぱら流れる。口が動かなくてただうん、と答えた。こちらを待つように暫く黙っていたけれど、そうか、じゃあな、とまた同じ言葉で切れた。そのまた次の次の日、私はその2時間も前から何も手に付かず、ただ電話を眺めて待っていた。そして一昨日も。
 昨日も。改めて眺めた電話はうっすら埃を被っていた。それが気になってぬぐっているうちに、とうとう部屋中の大掃除が始まっていた。そうしたら出てくる事出てくる事。彼の遺物。
「なんだ、出掛けてたのか、珍しいな」
 床を拭いて息を切らせたまま出た私に、彼は云った。そう、私はまるで猫のように静かに居たのだった。
 ダチュラが綺麗だったぞ、お前の向かいの家。
 そう云われて窓の外を眺めてみたが、ぼんやりと曇って見えなかった。なんでそんな事知ってるの、なんで毎日電話をしてくるの。
 だから今日は、出掛けなくてはならない用事をさっさと切り上げて、帰って来たのだ。待っていたのも、急いで帰って来たのも気づかれないように、平静に戻る時間を見込んで。

 ほんの少しの濃密な時間だった。日々忙しい人で、それからその忙しい合間のプライベートにも本を舐めるように読んでいた。私はそのまた隙間に、でも凝縮された時間に居た。私は、彼の職業柄、そうなるであろう事を十分に理解していたから、傍に居られるだけ幸せなのだと思っていた。だから小さな猫のように足音を潜めて歩き、自分のすべき事をする、それでいいのだと。
 でも、突然苦しくなった。ほんの少しの体温と柔らかい眼差しでは全く満ち足りていない自分を見付けてしまって、その浅はかさに叫び出しそうになるのをまた慌てて口を閉ざし、それから、こんな気持ちを抱えさせて全く気づきもしない彼を恨めしく思った。…なんて傲慢なんだろう、卑屈なのだろう。こんな気持ちを抱えてこの人と居られない。そうして別れたのだった。

 裸になった背中を汗が伝わる。この灼熱のような太陽の元、駅からの道のりを走ってきたのだ。水のボトルをキリリと開け、グラスに空ける。からからと音を立てて氷を回し、それから一気に煽った。取り敢えず落ち着くかな、身体だけでも落ち付け落ち着け。
 時計をじっと睨む。…あと一時間。それから電話。今日は電話は来るだろうか。まだ覚えていてくれてるのだろうか。苦しくなる。大丈夫大丈夫、落ち着いて。
 膝の裏から流れた汗が羊の毛に移る。汗で敏感になった肌に少し毛がちくちくする。
 あと30分。汗と羊の毛に反応した肌がまあるく赤くなって痒くなった。冷たい水滴でずぶ濡れになったグラスを当てて冷やす。時計の針がだんだん見え辛くなってくる。
 あと10分。鼓動が激しくなるのが分かる。あの人を待っているのが分かってしまうではないか。深呼吸して胸を膨らませた時だった。
 りんごん。
 息を吸い込んだまま硬直した私を生き返らせるように、もう一度。このチャイム、音を変えられないかなあ。かりかりしながら受話器をとった。
「…こんばんは」
 何の反応も返せない私に、向こうも暫く黙った。「えーと、入ってもいいか?」急に身体が熱くなり、激しい鼓動が戻ってきた。息苦しくて口を大きく開ける。更に暫く経ち、遠慮がちにキィが回されて、あの人が、目の前に、居た。目が熱い熱い熱い。
 激しい眼差しに引き寄せられるようにして首にしがみ付いた。背中がしなるほど強く抱きしめられて。それから、ごめん、ごめん、大好きだ、と吹き込まれて、その耳を噛まれた。

 珍しく私の方が先に目が覚めて、なんだか嬉しくて、ベッドを抜け出した。リヴィングは昨日の抜け殻でいっぱいだ。バックパックから本を取り出して、包装紙ごとごみ箱にほうり込む。要らなくなってしまった。そして、鍵が三つついたスヌーピーを引き寄せて抱きしめる。人とは愚かな生き物だ。一度はぎりぎりの思いを味わなくては、何かを変える事は出来ないのだろうか。
 それはともかく。昨日の反芻を始めてしまったら、とてつもなく恥ずかしかった。ソファーに飛び込んで羊に突っ伏して堪えていたら、「何やってんだか」と呆れたようなあの人の声が降ってきた。なんだか恨めしくなって下から見上げたら、指し当たって何か服を着てくださいね、と、昨日脱ぎ捨てたトランクスを、頭に載せられてしまった。

あとがき = 間に合うかな…(^-^;)


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