第1回、S・Sファイトクラブ「参加作品」
第一回FIGHT/テーマ「新」

「カウントダウン」

作者・桂木 香椰


「誰か、いる?」
 午前〇時を過ぎて、数分。
 細く開けた玄関の扉から吹きッ晒しの廊下を覗く背中に、囁く。
「いや、いない」
 両手に雑誌の束を抱え直して、志樹が振り返る。
「本当に?」
 疑う、というよりももう、決められたステップを踏むように聞き返した。
「自分で見てみろよ」
 そう言われるままに、志樹の影から覗き込む。
 冷たいコンクリートの柱と床。ざらついた風が足元を滑っていく。
 白い白熱灯が、余計に夜の暗さを際立たせるそこに、確かに人影はない。
 必死で真面目な表情を作りつつも、どこか堪えきれない高揚が滲み出る志樹の顔を見上げて、あたしはぴっと、親指を立てる。
 脱兎の素早さで、ふたり廊下へ駆け出す。
 目的地は――深夜の、ごみ捨て場。

「ああ……疲れた」
 へろり、と日に焼けた畳の上に転がって、あたしはため息を吐いた。
 頭上遥か遠くに、傘を取り外してまんまるな蛍光灯だけになってしまった灯り。思い切り伸ばした足が、ごつん、と積み上げたダンボールのひとつにぶつかる。
 昨日は水曜日、今日は木曜日。金曜日に来る清掃車が待てなくて、こっそりとごみ捨て場に走った。だってあたしたちは、今日のお昼にはここを消えるから。
 明日の朝一番に、運送屋が来る。このダンボールたちを運び出したら、それでこの部屋とはお別れ。
「ちょっとは遠慮してトドになれよ。でかい図体伸ばしたら、俺が座れなくなるだろ?」
 隅に寄せられたほかのダンボール山に寄り掛かって、兄の志樹がそんな腐れた言葉を投げてくる。あたしは、がつん、ともう一度ダンボールを蹴飛ばした。
「誰がトドよ、誰が。あたしを海生動物に例えるなら、人魚以外は却下」
「ジュゴンって、トドの海中バージョンだよな?」
「ジュゴンじゃない! に・ん・ぎょ!」
「同じじゃねえか」
「なら、あんたが言い直せば?」
 寝転がったままで、くだらない事を言い合う。一瞬、言葉が止まって、空気が止まる。止まった空気が、圧してくる。
あたしは目を瞑り、絨毯を引っぺがされた畳の上、指先でカウントを取る。
 ひとつ、ふたつ。
 指先まで脈打つ鼓動を、数える。
「お茶でも飲も?」
 むくりと起き上がり、傍らに放り出したままのコンビニ袋をかきまぜて、巨大なペットボトルを取り出す。一緒に、プラスティックのコップも。
 お気に入りのグラスは、全部ダンボールに納まってしまった。だから、いまはチープなプラスティックカップだけ。
 ふたつ、これだけは残したちゃぶ台の上に乗せて、一緒に買い込んで溶けるままにしておいた氷をたっぷり注いだ琥珀色に落とし込んだ。
「新しいアパート、駅に近いのか?」
「うん。歩いて……八分、ってとこ?」
「不動産屋のつり書きじゃなくてお前の足で?」
「うん。不動産屋さんと行ったときに、それくらいだった。なんで?」
「お前の鈍足と不動産屋の職業的俊足には、深くて険しい谷がありそうだから」
 ひとくち紅茶を含んで、あたしは上目遣いに志樹を睨む。
「ときに、俊足のお兄サマの新居は? 駅前名物の紙製の家にだけは住まないでよ」
「ほっとけ。俺、亜莉の部屋に当分いるわ。新居探しは、もうちょい後」
 志樹が部屋を出る直接の原因になった女の名前は、ひどく嫌な響きだった。でも、せり上がる想いを飲み込んで、あたしはわらう。
「亜莉さんも大変ね。こーンな巨大なナマモノが部屋に転がり込んできて」
「うるせ」
 会話を、ゆっくり噛み締める。壊さないように、この部屋にいた想い出を、歪めないように。
「亜莉さんの部屋って、中野よね?」
「そう。駅には遠いけど、でも日当たりはいいぜ。そのまま住みつきたいくらい」
「きちんと家賃は入れなよ」
「当たり前だろ? 余計なお世話」
「余地があるから、お節介が焼けるのよ」
「ぬかせよ」
 短く吐いて、志樹ががらんとしたキッチンスペースをみつめる。
 あたしは干からびた喉に、ぺこぺこ頼りない手触りの器の中身を流し込む。
 中身が半分になってしまったプラスティックカップのなかに、紅茶を注ぐ。きちんと満たされた様子に、すこしほっとする。
「亜莉さんに、優しくしなね。せいぜい捨てられないように」
 ――嘘。優しくしないで。あたしよりも、大切にしないで。
 勝手に喚いた心に、どろついた嫉妬とかを捨てられるほど枯れていないのだと、なんだかあたしはおかしくなった。
 妹なのに。
 妹なのに。
「お前にだけは言われたかねえな。この冷血女」
「……仕方ないじゃない、性格なんだもん」
「いいよ、別に。志梛は大切な妹だから」
 無言で、あたしはコップに口をつける。減った分を注ぎ足す。
「そのくせ、相変わらずだな」
 ぴん、と爪の先であたしのカップを弾いて、志樹が苦笑する。
「コップの中身が、いっぱいにしておくくせ」
 そういえば、志樹はいつも眉を顰めていた。
 なんで、半分残った紅茶のカップに新しいお茶を注ぐんだ。温度とか糖度とか、まざっておいしくなくなっちゃうだろ、と。
 怒られるのが嬉しくて、いくらでも繰り返した。くせになるほど、いくらでも。
「……彼氏は、そんな風にぐずぐず言わないひとを選ぶ」
「そうしとけ」
 そう言って、志樹はちゃぶ台に手を突いて立ち上がった。ぐん、と伸びをひとつ。座っているあたしから、顔が遠くなる。
「じゃあ、そろそろ行く。今夜中に行くって、亜莉に言ったから」
「……もう終電、ないでしょ?」
「歩いていける、この距離なら」
「体力馬鹿」
「いいだろ? 交通機関に行動が妨げられない見目イイ男」
「自画自賛は見苦しいわよ、お兄サマ」
「親愛なる妹君のお心遣い、痛み入ります」
 志樹は自分のコップを潰して、ごみ箱代わりのビニール袋に放る。同じくらい気軽く、志樹はあたしとの生活を切り上げる。
 もう、終わってしまう。
 志樹はあの女との新しい生活を選ぶ。意味のない傾斜を大事に拾い集めて胸にしまって、折に付けそれを取り出し愛しむような兄妹ごっこは、もうおしまい。
『志梛子は将来、お兄ちゃんと結婚するの』――そんな台詞は、とうに卒業した。お伽噺の主人公に自分を準えるほど、子供でもない。なのに、どこかで、いつまでもずっと一緒と信じてた。『信じる』という言葉も嵌らないほど、当たり前に。
無意識の感情ほど、裏切られたときは――きつい。
「ばいばいね」
 投げやりに、手を振った。いっそ早く切り捨てたくて、言いたくもない単語を繰り返す。
 行かないで。あんな女選ばないで。置いていかないで。
 ぐるぐると、無数の悲鳴が頭をまわる。頭蓋骨に、がつがつとぶつかる。
 ――痛いの。気付いてよ、お兄ちゃん!
「ばいばい」
 す、と志樹の手が伸びる。
 骨張った手が無造作に、あたしの前にあったコップを掴む。止める間もなく、ぐい、と一息で飲み干してしまった。
 からんと、小さく溶けてしまった氷が、底で音を立てる。
「じゃあな」
 一言で躊躇いもなく背中を向け、片手を挙げてみせる。
 廊下を擦る、コンバース。
 それを拾いながら、からっぽのコップを眺めた。ぬるまったペットボトルを、爪先で蹴る。
 カーテンのなくなった窓には、ぽっかりと欠けた月。
 あたしはもう一度、心のなかでカウントをとる。
 ひとつ、ふたつ。
 からっぽの胸を、遠ざかる足音の数で満たす。
 新しいものなんて要らない、欲しくない、……返して。
 そう、靴音にリフレインした。

あとがき = 『新』という字は、明るく輝かしげ。だから逆に、『新』を忌避する想いを書きたくなった。もしかしたら、すこし、テーマが薄いかもしれないが……。


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