ある廃屋


 家は生きています。あなたが毎日のように見ている家も、実は日毎にその姿を変えています。一日の変化は目に見えないくらい小さいでしょう。しかし、その小さな変化が積み重なって、家は時間と共に成長、あるいは荒廃していくんです。そこに住んでいる、あなたと一緒に。

 私が廃屋の写真に惹かれるようになったのも、きっとその信念があったからなのでしょう。
 家は生きていると言いましたが、廃屋というのはその意味では「家の死体」ということになります。こう言うと、被写体としての廃屋の魅力が少しはわかっていただけるかもしれません。
 家は住人を失ったと同時に、実はその命を失っています。そして、死んだ家は驚くほどの速さで自然に帰っていきます。ちょうど、生き物の死体が土に帰るように。しかしその死体には、必ず家が生きていたときの名残みたいなものが刻まれています。そこに刻まれている記憶は必ずしも楽しい日々だけではありません。辛い思い出や、恐ろしい出来事も、家は一緒に蓄えているんです。だから私は、そういった家の記憶を、写真という形で永遠に残したいと思ったんです。
 私は今まで三十年以上に渡り、日本各地を始めとして、世界中の廃屋の写真を撮り続けてきました。そこで今日は、今までに私が経験した中でも一番の不思議な体験を、皆さんにお話ししようと思います。それは、私が廃屋の写真を取り始めてまだそれほど間がないころに訪れたある廃屋での出来事です。

 その廃屋は長野県のある町の外れにありました。
 もう二十年以上も前の話です。若さにまかせて全国の廃屋を探し回っていた当時の私は、人からその廃屋の情報を聞くとすぐに、撮影機材を積み込んだ車でそこに向かいました。その時、私はその廃屋に関するある噂話もいっしょに耳にしていました。大体想像はつくでしょうが、そういう廃屋にはさほど珍しくもない、幽霊が出るという噂でした。私はそういったものをまったく信じないわけではないのですが、いつものことなのでたいして気にしていなかったと思います。
 たしか、新緑の季節だったと記憶しています。昼のまだ早い時間でした。青々とした森を縫うように走る細い道を抜けて行くと、それはまるで突然そこに出現したかのように、私の目に飛び込んできました。建物全体が緑の蔦に覆われているその洋館は、深い森の中にとけ込むようにして、ひっそりと佇んでいました。
 白亜の壁に囲まれた二階建ての建物は、既にその役割を終えてから数年の年月が経っているように見えました。私は出来るだけ先入観を持たないよう、余分な知識は持たずに撮影にのぞむようにしていましたから、本当のところはわかりませんし、そこがどうして廃屋になってしまったのかも、敢えて知ろうとは思いません。
 私はしばらくその姿に見とれていましたが、急いで車を降りると、カメラを取り出して撮影を始めました。
 私は撮影をする時、必ずその廃屋の昔の姿を頭の中に思い浮かべながら、シャッターを切るようにしています。その方が、荒廃した家の中に埋もれているわずかな記憶を探しやすいからです。このやり方は今でもまったく変わっていません。
 その洋館は、私が今まで撮影した中でも、忘れられないくらい魅力的な被写体でした。言葉では上手く伝えられませんが、荒廃へ向かわせる残酷な時間の流れに抗う、強力なエネルギーみたいなものがその洋館全体に漂っている気がしたのです。
 そのせいもあって、私は狂ったように撮影を続けました。そして、気がつくと私は洋館の中にまで入り込んでいたのです。

 洋館の中に入ってからも、私の熱は一向に冷めませんでした。
 ちょっとしたパーティーなら簡単に開けそうな広い洋間、かつては家族の楽しい会話が弾んでいたであろうダイニングルーム……。既に荒れ果ててしまってはいるものの、そこかしこに残るかすかな名残を辿り、そして当時の様子を頭の中に浮かべながら、私はシャッターを切り続けました。いつの間にか、多目に持ってきていたはずのフィルムを使い切ろうとしていました。
 そうしているうちに、不思議なことに私は、二階の端にある小さな部屋の前に立っていたのです。不思議なことにというのは、私には自分で階段を上った記憶がなかったのです。
 しかしそんな疑問なんてどうでもいいくらい、私は既にその部屋に強く惹き付けられていました。他の部屋とは違う、何か特別な感じがしたのです。私は手許に残った最後のフィルムをカメラにセットすると、静かにその部屋のドアを開けました。

 部屋に入った私はまず自分の目を疑いました。私の目に飛び込んできたのは、それまでのような荒れ果てた部屋ではなく、まるで人が住んでいる当時の姿をそのまま保っているような整然とした部屋だったのです。
 真っ赤な絨毯の敷かれた床に、白い壁。淡いピンクのカーテンに、柔らかそうなベッド。まるでその部屋の中だけ時間が止まっているかのように、その部屋だけがなぜか荒廃から逃れていたのです。
 私は呆然としながらも、無意識に何度もシャッターを押していました。そして、ベッド脇の机の上に置かれた、可愛らしい人形に目が止まったのです。その人形もやはり綺麗な状態のまま、そこに置かれていました。
 私は一旦、目をカメラのファインダーから外すと、その人形をもっとよく調べようと手を伸ばしました。
 その時です。私は背後に何か言い知れない異様な雰囲気を感じて、思わず振り返ったのです。そこには赤いドレスを着た六、七才くらいの女の子が、不思議そうな顔をして立っていました。
 私にはすぐに彼女が生きている女の子ではないことがわかりました。しかし、不思議と怖いとは思いませんでした。むしろ「そういうことか」と妙に納得していた記憶があります。
 私は女の子に言いました。
 ――ここは君のお部屋なの?
 女の子は小さく頷いたように見えました。
 ――そうか。じゃあ、君がこの部屋を守っているんだね?
 女の子は、私の言っている意味がわからない様子でした。そして、よく見てみると、彼女は少し怯えているように見えました。いきなり見ず知らずの大人が自分の部屋に入り込んできたわけですから、無理もありません。
 私は彼女を怖がらせないように、ゆっくりと部屋の入り口に歩いて行きました。そしてそのまま部屋を出ると、ドアの隙間から心配そうにこちらを見つめている女の子に「がんばれよ」と心の中でエールを送りながら、静かにドアを閉めたのです。

 部屋を出た私は、そこで急に疲労感に襲われました。頭がぼうっとして、体が重く感じました。私はそのまま、玄関から洋館の外に出ました。いつの間にか辺りはすっかり日が落ちていました。

 ここまでが私の不思議な体験の話です。
 十年くらい前にもう一度そこを訪ねたときには、既に洋館は取り壊されてしまっていて、何も残っていませんでした。
 後にも先にも、あんな体験をしたことはありません。今となってはあのとき撮った写真だけが、あれが夢ではなかったことの証です。
 その写真ですが、どうにも不思議なのです。あの女の子に会った部屋の写真なんですが、写っていたのはどれも他の部屋と同じ、荒れ果てた部屋の写真だったのです。
 この話をすると、どなたも一笑に付して、寝ぼけて幻覚でも見たんだろうとか、おまえの作り話なんだろうとか言われますが、さて、あなたは信じていただけるでしょうか。

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