真波


 一目惚れだった。
 彼女はゴミ捨て場で倒れていた。薄汚れてはいたものの綺麗な顔立ちをした子で、いったい誰がこんなところに捨てていったのだろうと不思議に思ってしまう。
 可哀想に、とハンカチで顔を拭う。なにも言葉を発さないけれど、茶色い大きな眸でみつめられて僕はどぎまぎした。わたしと一緒にどこか遠くへ逃げて、と訴えているような気がして、その願いを叶えることにした。遠くと言ってもアパートなのだけれども。
 帰宅して、まず彼女の服を脱がした。軽くお湯で汚れを落としてから、アルコールを含ませたガーゼで全身を丁寧に拭く。身体が乾くのを待ってから今度は服を着せた。さっきまでの汚い服ではなく、僕のコレクションから一着、向日葵柄の浴衣を用意した。袖を通した彼女は満足そうに笑った。――というのは、もちろん僕の思いこみにすぎない。
 夕方になって部屋を訪れた佳苗が「あ、新しい子がいる!」と目ざとく彼女をみつけた。佳苗とはおたがいの合鍵を持っている関係で、僕の趣味を理解する数少ないひとりだ。元々は幼馴染で、気心が知れているというのもあるのだろう。高校が別々になり一度は疎遠になったものの、上京してから偶然再会した。幕張で。
「この子、こないだのイベントの?」
「それはあの子。この子はさっき拾ったんだ。捨てられてるのがもったいなくて」
「相変わらずね」呆れたように佳苗が笑い、「なんかこの子、お姉ちゃんに似てる」
 言われてはじめて気づいた。懐かしい名前だ。確かに目許がよく似ている。僕が彼女に惹かれたのは、あの人に似た目許のせいかもしれない。
 ――真波。
 僕は彼女にあの人の名前をつけた。
 その夜、暑苦しくて僕は目が覚めてしまった。
 水でも飲もうかと身体を起こすと、ベッドの脇に誰かがいることに気づいた。薄暗くて顔はみえないけれど、誰なのかは察しがつく。「佳苗」と名前を呼ぶといきなり唇を押しつけられ、起こした身体もそのまま押し倒された。
 佳苗じゃなかった。はっきりと顔がみえた。真波だった。
 僕は混乱した。掌より大きい程度だった身体が、いきなり等身大になるなんて有り得るのだろうか。唇を割って舌が入ってくる。真波の胸があたっている。暑いはずなのになぜか真波の体温は心地好く感じられる。彼女は佳苗の姉の真波じゃなくて人形だぞ。理性がそう叫ぶものの身体は勝手に反応してしまい、僕自身も誘惑に抗えるほど人間はできてはいなかった。
 ――朝。
 起床するなり僕は真波の姿を確認した。彼女は何事もなかったように、昨日飾った場所に座っていた。拾ったときと変わらない微笑を僕に向けている。思わず頭を抱えた。あれは夢だったのだろうか。その割にはリアルな夢で、真波の唇の感触も体温もはっきり憶えている。もしかしたら、あれは真波なんかじゃなく佳苗だったのかもしれない。そう考えるのが現実的じゃないだろうか。一瞬躊躇したものの佳苗の携帯に電話をし昨日のことを話すと、「欲求不満」と一蹴された。
 
 
「佳苗、最近いいことでもあった?」
 僕が訊ねると「なんで?」と怪訝な顔をされてしまった。
 真波を拾った日を境に佳苗の様子がどこかおかしい。それまで数えるほどしかしなかった化粧をするようになった。肌の露出が多くなった。妙に僕に優しくもなった。男でも出来たのかと思ったが、それにしては僕の部屋に訪れる回数も増えた。以前は多くて二日に一度だったのが、最近では毎日だ。
「ちょっと雰囲気が変わったかな、って思って」
「そうお? あんまし前と変わんないよ」
 真波のせいだろうか。そんな考えがよぎる。
 ここ数日、バイトから帰ってくる真波の位置が変わっている。買った憶えのない服やアクセサリーを身につけていることもある。もちろん霊現象なんかではなく、おそらく佳苗が買い与えているのだろう。佳苗は同好の士でもあるし、自分自身を人形に見立てて着せ替え遊びをするくらいだから、そのこと自体はとりたてて不思議ではない。
 ただ、気になることがある。
 最初の夜以降、僕はたびたび真波を抱いている。抱かれていると言ったほうが正しいのかもしれないが、とにかくそういうことが続いている。夢なのかどうかは実際のところ分からない。けれど真波になにか不思議な力があると言われたら、きっと僕は信じてしまうだろう。それが佳苗にも影響していると言われても。
「そっちこそなんかあったの? さっきから難しい顔してるけど」
「なんでもないよ」
「嘘」間髪を容れずに言う。「最近の尚輝、ちょっと変だよ」
「そうかな」
「そうよ。嫌なことでもあった?」僕の返事を待たずに上目使いで、「なんなら慰めてあげよっか」
 どきりとした。いつかだったか、あの人と同じ会話をしたことがある。僕は冷静を装い、「遠慮しとくよ」
「ちぇっ、残念」
 舌を打つ佳苗の顔に、真波の顔が重なった。
 
 夜、酒を切らしたのでコンビニまで出かけると、後輩の小宮と偶然会ってしまった。ちょっとのつもりで長々と話してしまい、せっかくだから家で飲まないかと誘うと、これから彼女と会わなければいけないそうで、そのまま別れた。
 帰りが遅くなり、また文句でも言われるのだろうなと覚悟を決めて玄関を開けると、奥から声がした。お姉ちゃん、お姉ちゃん。すすり泣く佳苗の声。
 いつもの発作だった。年に何度か、佳苗はあの人のことを思いだしては泣く。酔ったときに多い。
「大丈夫か?」
 急いで部屋に上がり、息を呑んだ。
 佳苗ひとりではなかった。彼女は僕が帰ったことに気づいていないのか、真波だけがこちらを振り返る。ベッドの上で佳苗を抱きながら、いつもと変わらない、けれど無機質な微笑を浮かべている。
「お姉ちゃん、どうしてあたしを置いてっちゃったの」
 真波は胸の中で泣いている佳苗に視線を戻す。「もうどこにも行っちゃ嫌だよ」と駄々をこねる言葉を口づけで封じる。
 僕はその場から動けなかった。
 口づけを合図に佳苗の身体に変化が起こった。だんだん小さくなっていく。体が縮んでいくにつれ唇が真波から離れ、お姉ちゃん、お姉ちゃん、泣く声もしだいに小さくなり、最後には聞こえなくなった。
 真波はもう一度こちらを振り返った。やはり微笑を浮かべている。僕は後退りした。
「久しぶりね、尚輝」
 硬直した。忘れようがない、あの人の声。
 動けない僕に真波は近づき、佳苗にしたようにキスをする。
 ――思いだした。ずっと忘れていた。
 僕と佳苗が、なぜ人形に興味を持ちはじめたのか。一番最初に蒐集していたのは真波だったのだ。
 記憶の奔流。
 あの夏、真波は人形を拾ってきた。小汚かった人形を僕らの前できれいに蘇らせ、真新しい向日葵柄の浴衣を着せた。向日葵は真波の好きな花だった。その日以来、真波は変わった。その人形のことばかり話すようになった。幼かった僕は嫉妬をし、それを訝しがった彼女は、最近の尚輝、ちょっと変だよ、嫌なことでもあった? なんなら慰めてあげようか。数日後、なんの前触れもなく真波は姿を消し、同時に人形も消えた。姉を喪って佳苗は泣いた。僕も泣いた。手がかりすら見つからず七年がたち、僕らは真波の年齢を追い越してしまい、彼女は今、あの夏よりも少しだけ大人びて僕の目の前にいる。
 そして僕は――

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