見ていた子


 子供が見ていた。私の手元を男の子が見つめていた。
 作業の手を止めると、彼はバスタブの縁に頬杖をついたまま、にこっと笑った。自然とこちらの頬もゆるむ愛らしい笑顔だった。
 しかし、この子は誰だ。記憶にない。百合子は知っていたのだろうか。彼女は怖がりだったから、男の子に気づきながら今日までこの部屋に住んでいたはずはないが。
「きみは幽霊かい?」
 作業に戻りつつ、聞くまでもないが訊ねてみた。話相手が欲しかったのだろう。狭い風呂場に百合子と二人きりの状況にも、いいかげん嫌気がさしていた。
「んー、よくわかんない」
 彼は困ったように口をとがらせて、かぶりをふった。自分が幽霊だとわかっていないのか、それとも幽霊の存在を知らないのか。
 どちらにせよ、バスタブをまたいで私の横にしゃがみこむ彼の股に、ぷらぷらと小さなものが揺れている光景は、むしろ私と百合子よりも現実感があった。皆が皆、生まれたままの姿なのがおかしい。
「おじさんは何してるの?」
 彼の無邪気な顔に、頭の隅に追いやったはずの罪悪感を刺激される。私は意地悪く、あえてわからないだろう言葉で答えてやった。
「不倫の清算だよ」
 彼は困ったように口をとがらせた。

 沈黙が続いた。私は百合子を解体していくのに必死だったし、男の子もまた口をはさむことはしなかった。
 ネチャネチャと肉を切る音、ゴリゴリと骨を削る音、二人で最後にとった朝食が消化しきれず、断面から滴る血に混じってこぼれ落ちる臭い、それと腸に残っていた大便の強烈な異臭が、風呂場に充満していた。桶にためた石鹸水で、手にまとわりつく脂肪を洗い落としつつ、作業を進める。
 そのうち飽きてきたのか、男の子は百合子の腕をとり、指を握らせたり開かせたり、じゃんけんをしはじめた。
 彼の背中に大きな傷があるのに気づく。大きな大根おろしですったかのように、肩甲骨から腰のあたりまでがえぐられており、筋肉や骨が見えている。
 なにかの事故で死んだ子なのか。
 私はいつだったか、百合子から聞いた話を思い出した。
 二歳違いの弟がいた。大変仲が良かったという。ところが幼い頃、彼女の不注意により、車の事故で死なせてしまった。彼女は「不注意」と表現した。いまだ陰りあるその表情に、それ以上聞くことがはばかられたため、詳しくはわからない。
 そう思って見ると、男の子にはどこか百合子の面影があるような気がしてくる。私の視線に気づいて笑いかけてくる彼を、抱きしめてやりたい衝動にさえかられる。
 罪悪感とともに忘れたはずの後悔が、ノコギリを引く手をにぶらせる。原形をとどめていない顔よりも、隣で遊ぶ男の子のほうが百合子を思い出させた。
 私はまだ彼女を愛していたのかもしれない。もう抱きしめることもできないけれど。

 バスタブに入れてあった百合子の胴体をとり、シャワーで洗い流してから、黒いビニール袋に移した。足や腰まわりの部分も同様に、別々の袋に分けていく。頭を手にとったときは長い髪が災いし、指にからみついて苦労した。
「これ!」
 と男の子が差し出した腕を袋に入れると、全身を脱力感が襲った。ただ、まだ終わったわけではない。百合子を廃棄する場所は調査済みだが、不測の事態が起こらないとも限らない。今一度、気をひきしめる必要がある。
 私は男の子の手を石鹸水で洗ってやりながら、しかし一時、心の和らぎを感じていた。中学生の娘にはもうこんなこともしてやれない。まともに口をきいてすらいない。
 久しく忘れていた親としての幸福感。そんなものを、殺害した不倫相手の肉親の幽霊に対して覚えている。
 人が狂うとは案外あっさりしたものだと思う。

 車を降りると、鳥のさえずりがやけに大きく聞こえた。郊外の雑木林、辺りは昼でも薄暗く、人目につく心配はほとんどない。
 助手席のドアを開けてやる。男の子が飛び出した。まだ裸だ。
 ダメだと言っても「ぼくもいく」とゆずらなかった。だが、百合子の部屋に子供服などない。裸の子供を助手席に乗せていたら、職務質問してくださいと叫んでるようなものだ。廊下を走らせてみて、彼が私以外には見えないらしいとわかり、ようやく同行を許可したのだが。
「邪魔するんじゃないぞ」
 トランクを開けながら念を押す。彼はあたりを物珍しそうに見回していた。
 取り出したスコップでひたすら穴を掘っていく。汗がしたたり、手の平が痛くなる。
 額をぬぐい、スコップを投げ捨てた。息を整えるのももどかしく、トランクを開ける。ゴルフバッグを引っぱり出す。穴までひきずるあいだ、舌打ちをくりかえした。ダイエットしたなんて、やっぱり嘘だったじゃないか。

 袋を投げ入れていく。胴体の入った一番大きな袋を両手で抱え、頭の上から振り下ろした。なにか叫んだかもしれない。自覚する以上に疲労していたのか、私は反動で尻餅をついた。
 荒くなった呼吸の合間に、うめき声とも笑い声ともつかないものが洩れる。頭上を仰いで目を閉じると、達成感と爽快感が全身を満たした。
 激しく上下する私の肩を、男の子が叩いた。無視していると耳元で、
「おじさん、起きてよ!」
 鼓膜が破れるほど怒鳴られた。精一杯の恨みがましい目で彼をふりかえる。こちらの心臓が止まりそうだ。
「ちょっと、休ませてほしいんだが」
「あのね、ぼく、そろそろお家に帰らないと」
 家? 百合子の部屋か。どうせ車を運転するのは私だ。もう少し待っていてもらおう。
「じゃあね、おじさん」
 ところが男の子はそう言うと、笑顔の横で小さく手を振った。部屋に帰るわけではないらしい。
 何をした憶えもないが、成仏でもするのか。名残惜しさはあるものの、死んだ者も生きてる者も、収まるべきところに収まるのはいいことだ。
「ああ。じゃあな」
 彼の手の平に拳を当てた。彼は大きくうなずいてから、くるりと背中を向け、そして……
 穴に飛び込んだ。

 穴を見下ろす。
「なにをしてる」
 聞く声に怒りが混じった。穴の中にうずくまった彼が答える。
「ここ、ぼくの家だもん」
 ぼくの家。彼の体の下にあるのは一番大きな袋だ。百合子の胴体。
 百合子のお腹。
 彼はうずくまっている。生まれたままの姿で。胎児のように。生まれるときの姿で。
 お家に帰る。母の胎内に還る。
「きみは……」
 そのあとが言葉にならなかった。
 彼はバスタブから現れた。そこには百合子の胴体も入っていた。切ってすぐ、あまりの悪臭に放り込んでおいたのだった。彼は百合子から生まれていた。
 背中の傷が目の前に迫るように映る。削られたような、えぐられたような、大きな傷。どちらも違った。
 切り取られたあとだ。胴と腰をノコギリで切断するとき、中で丸まっていた彼の背中を一緒に切ってしまったのだ。
「なに?」
「いや。すまなかった、その傷。きみがいるなんて知らなかったんだ」
「ううん、平気。怒ってないよ、ぼく」
「そうか」
 黒いビニールに視線を移す。知らなかったんだ。
「おじさんが」
 母子になれなかった二人。私はおじさんでいい。
「おじさんが誰だか、知ってるかい?」
「んー、わかんないよ、そんなの」
 彼は困ったように口をとがらせた。苦笑する。彼も私も、わかんないことが多い。
 スコップを拾いあげる。
「それじゃ……ばいばい」
「うん。バイバーイ!」
 私はもう一度、さようならとつぶやき、彼の小さな背中と、小さくなった百合子に土をかけた。

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