タクシー


 「おかしい、とは思ったんだよな」と、三船さんは言った。
「でもまあ、そんなこともあるかと思って乗せたわけよ。乗車拒否すると、後が怖いからねぇ」
 三船さんはタクシーの運転手だった。ある日の深夜、峠を越える国道を走らせていた。国道には走る車も見あたらず、うっすらと霧がかかり、路面は濡れ光っていた。
「さぞ蒸し暑く感じるんだろうな、って白いもやを見ながら走らせてたら」
 道端に青白い影が立っているのが見えたという。やがて、影は手を挙げる女だとわかった。妙な雰囲気だったものの、職業意識の高かった三船さんは女の脇に丁寧に車を停めて、ドアを開けた。
 乗り込んできた女は、霧のせいか全身がぐっしょりと濡れていた。
「こう、長い黒髪が顔にべとっと張り付いててね。随分長い時間立っていたからか、動きがガクガクッてぎこちなくってさ」
 三船さんが声をかける前に、女は「助かったわ」と言った。まだ若いようだったが、喉が詰まったようなゴロゴロとした声だったという。「車がだめになっちゃって……。誰も通らないんで、どうしようかと思ってたの。あー、涼しい」と言いながらも、小刻みに震えていたらしい。
「“だめになった”車ってのが路肩に停められて、というか放置されてたんだ。ガードレールに突っ込んだんだな。その時は、『ああ 初心者か』程度に思ったんだよ」
 スピードの出しすぎで、霧で濡れた路面にタイヤを捕られ、カーブを曲がりきれずに滑って道路から飛び出したのだろう、と三船さんは見当をつけた。自分の技量がわかっていない、初心者ドライバーにはありそうなことだ。
「今にして思えば、“だめになった”にしちゃあ、車自体は結構綺麗だったんだよな……」
 車体はそれほど破損しているわけではなく、フロントガラスも運転席側にややひび割れがある程度だった。
「ま、その程度でもエンジンがいかれることはあるからね……」
 目的地にタクシーを走らせるにつれ、道はどんどん細くなっていった。民家の明かりどころか道路灯さえなく、周囲は木々が覆い被さって黒く塗りつぶされているようだった。
 三船さんは、ヘッドライトだけを頼りにハンドルを操ったが、その間もルームミラーで後部を確認するのを忘れなかった。女は事故のショックなのか、髪の毛を直すことも濡れた身体を拭くこともなく、ただ呆然と座っていた。
 道はやがて舗装されていない砂利道に変わり、タクシーは峠を下って行った。高度が下がるにつれ、霧が徐々に濃くなってきた。車体が揺れていることに気づき、女が左右を見渡したのも同じ頃だったらしい。女はとまどったような表情で、車窓から外を頻繁に眺めだした。この時になってようやく、張り付いていた髪もかき上げた。
 綺麗な顔立ち、だったという。
 ただ、ショックが残っているのか、あるいは霧越しの光具合のせいか、彼女の肌は青白く、まるで血の気を感じられなかったそうだ。両の瞳だけが、ぎらぎらと輝いていたように見えた。
「そうだなー、右も左も黒と白が入り混じったようになって風景なんか見えなくなってた時だな。女が『あの……どの辺を走ってるんでしょう?』と聞くわけだ。どの辺たって、山の中としか答えようがないんだよな。通り慣れた道とはいえ、そこの住所とかどんな場所かなんてのは、タクシーの運転手でも知らないからねぇ」
 仕方がないので、三船さんは女を安心させるために「なに、大丈夫ですよ。ここは一本道ですから」とだけ答えた。
 女に変化があったのも、この時だった。「そう」と応え、大きく目を見開いたまま、後部座席で固まってしまったらしい。
「あれ? なんだか妙だぞ、という思いがやっと大きくなってきたんだよな。様子がおかしいぞってね」
 三船さんは安全運転をしつつ、後方をちらちらとチェックし続けた。どうやら、彼女の方も三船さんを時折を横目でうかがっているようだったという。
「でね。あ、やっぱりこのまま走らせるのは、ちょっとヤバイかもって。で、霧がもひとつ濃くなってたから、いつでも停められるように極端にスピードを落としたんだ。注意して、後ろを観察できるようにもなるからさ」
 ミラーで見る範囲では、女が怪我をしているようには見えなかった。顔にも、露出している二の腕にも外傷らしきものは見あたらないが、花色の上着にはかすかに赤いものがにじんでいた。彼女は座席の左側で、窓に顔を押しつけるようにして外を見つめていたのだが、寒さを和らげるように、左手で右腕をなでさすっていたらしい。
 三船さんの目に、かすかな明かりが見えたのはその時のことだ。霧で朧に霞む前方の闇の中で、ゆらゆら揺れているのは炎だった。オレンジ色の揺らめきが白い霧に溶け込む様は幻想的な色彩で、癒しを感じられたという。炎の中心部は、上下が逆さになったような車の形をしていた。
 「どうして……」と女が不意につぶやき、三船さんは静かに車を停めた。
「どうして滴が……あんた、何よ!」
 ミラー越しの女の形相は、凄まじいものに変わっていた。右手に、鈍く光る包丁が握られているのを認めて、三船さんは咄嗟に後方を振り返った。
 女が絶叫を放ちながら、振りかぶった包丁を振り下ろし、三船さんの左肩に深々と突き刺した。
「まあ、包丁を振りかぶられたのには、正直たまげたな。今まで、そんな経験があるわけじゃないから……。後でわかったんだが、あの女、前に乗っていた車の運転手を、殺したばかりだったのさ」
 女が乗っていた車は、彼女が運転していたのではなかった。三船さんの車がたまたまタクシーだっただけで、前の車の運転手もまた、女を拾って乗せたのだ。そして、あのカーブにさしかかる直前、助手席から切りつけられたのだった。突然脇腹を刺されたりしたら、事故を起こすのも当然のことだろう。
 あの女は、車を止めては乗り込み、運転手を殺して歩く殺人鬼だったというわけだ。
「綺麗な顔をして……人ってのはつくづくわからないもんだねぇ」
 凄まじい悲鳴をあげ続けて、女は包丁を何度も振り回しながらタクシーを転がり出た。周囲はまるで見えないだろうに、そのまま闇雲に森の中へと走っていく。何度も草に足を取られ、木につまずいても走るのをやめなかった。
 悲鳴が尾を引いて消えていくのを聞きつつ、三船さんは最初「悪いことをした」と後悔したという。
「やっぱり“間違って”いたわけだしね。けどまあ、こちらも刺されてるわけだからおあいこかな、と思い直したよ。俺も、事故の状況をもっと注意して見とけばよかったんだよな。あの程度の事故で死んじまうわけがなかったんだ……」
「つまりは……その女性は死んでたわけじゃなかったんですね?」
「そういうことだな。まったく偶然に、“見えちまう”ようになったんだろうさ」
 女がそのことに気づいたのは、おそらくタクシーの窓を見ていたからだろう。涼しい車内と蒸し暑い外部の温度差を考えれば、窓に結露していなければおかしいはずなのだ。三船さんのタクシーには、そんなものが付着するはずもない。
 ただ、本来なら、生きた人間が乗れるはずもないのだが。
 その疑問を口にすると、
「まあ、事故のショックとあんたを殺しちまったせいで、一時的に生死の境を越えでもしたんだろうさ」
 三船さんはそう言って、焼けこげ崩れ、ケロイド状になった顔の表面をずるりと撫でて、かすかに笑った。

<了>

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