手をつないで


 ぎゅっと手を握られた。
 温かく、じっとりと湿った、小さな子供の手だ。短くやわらかい指で、男の左の人差し指と中指を強く握り込んで離さない。
 繁華街の喧騒の中、親と間違えたのか。単なる迷子か。
 邪険に手を引いてみても、手は離れない。しつこくすがってくる。いっそ怒鳴りつけてやろうかと振り返る。
 振り返ったところで、男は茫然とした。
 そこには、誰もいなかったのだ。
 否、たしかに男の手には、子供の手の感触がある。温かく、じっとり湿った、小さなやわらかい手。
 だがそこにあるはずの、子供の姿は見えなかった。
 ゾッと背筋を冷たいものが這い登る感触に、男は力任せに腕を引く。
 ぶらりと、異様な重みが腕の先にぶらさがる。子供一人分には軽すぎる、錯覚と割り切るには重過ぎる、不気味な重さ。
 腕を左右に降る。目には見えない子供が、ぶらり、ぶらり、振り子状に揺れるのがわかる。
 男は、駆け出した。
 闇雲に、ジグザグに走る。雑踏を抜け、通りを外れ、路地に逃げ込む。
 見えない手はまだ離れない。
 男は、自分の左手を壁に叩きつけた。コンクリに打ち付けられ、手はたちまち痺れ、赤くなり、擦り切れた皮膚から血が滲む。
 それでもなお、小さな手の感触は離れない。
 荒い息をつきながら、男は自分の左手を凝視する。
 不意に、傍らのドアが開いた。
 雑居ビルの通用口らしい。派手な服に前掛けをかけた老女が現れる。大きなゴミ袋を持っている。
 じろりと、不審そうに男を睨む。
 男は、何か言い訳をしようとした。
 だが何を言えるわけもなかった。
 血の滲む左手を背中に隠し、会釈ともつかぬ角度で目をそらす。
 老女は唇をへの字に歪めると、ゴミ袋をバケツに突っ込み、またドアの向うに消えた。男を、路地に迷い込んだ酔っ払いくらいに思ったのだろう。
 急に男はしらけた。
 実際のところ、左手に見えない子供の手がぶらさがっているなどとは、酔っ払いの戯言にしておくのが無難だろう。
 そんなことを口にしたところで誰も信じるまい。信じるどころか、狂人扱いだ。
 見えない手は、いっこうに離れそうにない。
 だが、とりたてて害を招くものとも思われなかった。見えない手をぶらさげていても、男は全速で走り、壁を叩くことさえできたのだ。
 不気味な感触にさえ気付かないふりをしていれば、指を曲げたり伸ばしたりすることもできる。
 男は、すっかり開き直ることにした。

 男はそれから、小さな手とともに過ごした。
 重い鞄を右手から左手に持ちかえるときも、茶碗を持つときも、風呂で尻を洗うときにも、幼い手の感触はつきまとったが、支障はない。わずかな重みさえあるくせに、それは空気よりも無害なのだ。
 外を歩くときは左手にぶらさがるようについて来て、布団の中では手をつないだまま眠る。
 異様な事態には違いなかったが、男はすぐに慣れた。
 まんざらでもない気持ちにさえなりつつある。
 目には見えない手でも、その人肌と来たら、目に見えるどの手よりも温かい。
 男は、歩くときに左腕の振りを小さくするようになったし、座るときにも膝に揃えず左手を脇へ垂らすようになった。
 深夜にテレビを消した後は、必ず左手を振り返る。映像が消えたブラウン管に一瞬子供の影が映るように見えるからだ。
 だが左手にあるのは、温かくてじっとり湿った子供の手の感触だけで、子供の姿はおろか、指先さえも見えはしない。
 もしも目に見える自分の子供がいたら。男はぼんやり考える。
 幼い頃から家族に縁が薄く、この歳まで一人身だったから、自分の子供なんて考えたこともなかった。どちらかというと子供嫌いで、欲しいと思ったこともない。
 それなのに今は、この手のせいで、まるで自分の子供がいたらと甘ったるい妄想に浸っている。
「子供の手って、ちっちゃくてあったかくて、握るだけで幸せなのよう」
 なじみの飲み屋の女が、うっとりと語っていたことをふと思い出す。
「二回も堕ろしてるから、あたしはもう産めないけど。もし産めたら、あんたの子供を産んであげる」
 そう言って、男にしなだれかかった。誰にでも言う、飲み屋の女の甘言に過ぎない。
 男は、何も答えず女の頭を撫でてやる。水商売のくせに、染色も電髪もあてていない真っ直ぐな黒髪で、まるで子供のおかっぱのような手触りだ。
 女とは、一度や二度寝たこともある。子供をあやすように撫でているうちに、そうなっただけで、あとはお互いさっぱりしたものだ。
 そういえば、ここ数ヶ月会っていない。
 あの女に、見えない子供の手のことを話したら、うらやましがるだろうか。
 灯りを消して、布団の中でぎゅっと握ってくる感触に目を凝らす。
 白く、霧のようにぼんやりと、闇の中に小さな手が見えてくる気がする。
 上司に怒鳴られた日や、他人の子供の写真を見せられた日には、霧はより白く濃く見え、やがて人型に滴る。
 それは冷えた晩にガラスにつく結露と同じで、男の胸の冷えをやわらかく覆うように思われた。

 そうして何日か過ぎた頃、男は一本の電話を受けた。
 なじみの飲み屋のママからで、例の子供を産みたがっていた女が死んだと言う。明日には田舎の親族に遺骨を引き渡すから、今晩告別に来いとの誘いだった。
 女の命日を聞いて、男は驚いた。女は、左手に子供の手が憑りついたのと、同じ日に死んだという。
 冷たい汗をかきながら、男は左手を握った。小さな手の感触が、ぎゅっと握り返してくる。
 黒い服に着替え、目には見えない子供の手を引いて、男はよろめくように町へ出た。町は既にとっぷりと暗く、結露が家々のガラスを白く覆っている。
 見えない手に左手を引かれるままに歩き、男はコンビニで駄菓子を買った。子供が好みそうな、中身よりもおまけの玩具の大きい安い菓子だ。
 女のアパートには、不思議と迷わずたどり着いた。
 ドアを開けたママは、男が手にしている駄菓子をうろんな目つきで見咎めたが、黙って案内した。
 抹香がつんと鼻につく。アパートは既に片づけられ、畳の上に白木の箱だけが据えてある。遺骨に向かって、飲み屋のなじみらしい男たちがうなだれて座っていた。
 男はまず、白木の箱にいざり寄った。
 駄菓子を供えようと見れば、既に人形とガラガラが供えられている。
 さては女は、子供を身ごもったまま死んだのだろう。もう産めないと言っていたが、奇跡的に妊娠していたのかもしれない。
 それで、産まれるはずだった子供が、男の左手に憑りついたのに違いない。
 思い当たると、嗚咽がこみあげた。
 左手の人差し指と中指を握ってくる小さな感触を、やさしく握り返す。見えない子供が握りやすいように、左手を心持ち浮かせてやる。
 他の弔問客におかしな目で見られようと構わない。今日この場では、左手の可哀想な子供を、そこにいるものとして扱ってやりたいと思った。
 遺骨につくづくと頭を下げてから、振り返り、男は息を呑んだ。
 背後に座っている男たちは皆、左手を心持ち浮かせていたのである。まるで、小さな子供と手をつないでいるように。
 浮かせた手の先には、白っぽい霧が見えた。薄いもや程度のもの、白く濃く子供の輪郭が滴るほどのもの。それぞれの胸の冷えを、霧の濃淡に比例して。
「もし産めたら、あんたの子供を産んであげる」
 女の声がなまなましく脳裏に蘇る。
 いったい女は、何人の男に同じ約束をしていたのだろうか。

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