露天風呂の怪


 由布岳を望むすり鉢型の盆地、ここは天下の名湯、大分県は湯布院である。夕焼け過ぎて黄昏ごろ、日本の温泉町らしからぬシックな町並みを歩く、一人旅らしき若い男。
「……ええと、この辺りなはずなんだけどなぁ」
 地図を片手にそうぼやく男の名前は、轟一平。
 ぶらぶら一人旅を趣味にしている大学生の一平は、この夏の九州一周旅行にて、今夜の宿を湯布院に、と定めたのであるが、なにぶん貧乏学生の一人旅、湯布院らしい高級温泉宿や、こじゃれたペンションに泊まる金のあろうはずがない。というわけで、観光案内所で紹介してもらった、町で一番安いビジネスホテルに泊まったものの、残念ながらそこに温泉はない。湯布院まで来て温泉につからぬ道理はなかろうと、ガイドブックに載っていた「一風呂百円の公衆露天風呂!」を探して歩いている、というわけだ。ま、「混浴」という文字に密かな楽しみをかけぬでもなかったのであるが。
 しかし、ガイドブックに載っている露天風呂なくせに、客寄せ看板の一つも見つからず、どこにあるのかさっぱり分からない。金鱗湖なる湖のそばにあるらしいのだが、暗いせいもあってその湖の所在さえよく分からないのである。
 というより、正しいと思い進んできた周りの道自体があやしくなってきた。大通りをそれ進む道は、下手をすれば農家のあぜ道なんじゃないかとさえ思える。果たしてこの先に「露天風呂」などあるのだろうか? 
「やっぱり、さっきのローソンで聞いときゃよかったかなぁ」
 そうぼやきたくなるくらい、辺りは寂れ人っ子ひとり見当たらない。ううむ、こりゃ本格的に道を間違えたかな、と思ったそのときである。
 ぱっと開けた場所に出た。そしてそこに佇む古めかしく風情漂う建物……ではなく、ろくに明かりさえない木造平屋の掘っ立て小屋。けれど、その向こうに見えるこじんまりした池は、どうやら「金鱗湖」であるらしい。
「まさかこれじゃねぇだろうなぁ?」
 ――そのまさかであった。いい加減薄汚れていて暗い中ではひどく読みづらい看板、そこには「湯布院公衆露天風呂 下湯」とある。
「ホントにここかよ……怪しい雰囲気全開だぜ……」
 実際、辺りに人気はまったくない。そもそも、番台らしきものも受付らしき人もいない。まったく、どうなっているのやら。
 ふと脇を見た。するとそこにはポストのような置物。
「代金・百円はここに入れてください」
 ――わお。マジかよ。受付とかねーのかよ。まったく、営業する気があるのかさえ疑わしい。
 しかしまぁ、誰も見ていないのならば、たかが百円払う気などない。とりあえず、入ってやれ。
 そう思って木製の引き戸をガラガラと開けると――なんとその目の前にいきなり風呂があるのである。二十畳ほどのスペースのど真ん中にでんと風呂が一つ。正面の壁だけ全て取り払われており、金鱗湖が見渡せるようになっている。そして、湯につかる中年男性の先客が一人。やっぱり番台のくそもない。
 どうしていいのか分からずおろおろしていると、
「お兄ちゃん、はじめて? そこで、服脱ぐんだよ」
 言われて脇を見ると、いくつも並ぶ棚と籠。「はぁ、ありがとうございます」
 なるほど、これはこれで混浴だわな、と(意気消沈しながら)納得しつつ、服を脱いでタオルを引っ掛けた。なんとなくおじさんに遠慮しながら、ゆるゆると湯につかる。
 が、見かけのおんぼろさとは裏腹に、熱さも適温でなかなか良い湯である。なにより、眼前の金鱗湖の眺めがすばらしい。湧湯の湯気であろうか、湖の表面にはもうもうと白いものが揺蕩たっていて、それも風情があって良い感じである。
「やぁ、君はここはじめてなの?」
 と、おじさんが話しかけてくる。
「あ、はい。一人旅なんですよ。九州は初めてで」
「ああ、そう。僕は福岡なんだけどね、温泉が好きで、車で一時間くらいだから、週一くらいで入りに来てるんだよ」
 と、親しげに話しかけてくる。一平も、そういう旅先での交流は嫌いな質ではないので、貧乏学生らしい今までの旅の無茶話だとか、おじさんが今まで入った温泉の話だとかでひとしきり盛り上がり、なかなかに楽しい時間を過ごした。
 しばらくして、
「それじゃあ、僕はそろそろ先に上がらせてもらうよ」
 と、おじさんは湯を出た。だが、体を拭いて服を着て、もう帰るというとき、ぷいとこちらを振り返った。
「あ、そうそう、一つね、教えておいてあげるよ」
 と、内緒話をするように顔を近づけてくる。
「は、はぁ」
 するとおじさんはこそっと打ち明け話をするように、
「実はね……ここの露天風呂……出るんだよ」
「……出るとは?」
 一平の言葉におじさんはもったいつけるように首を振って、
「決まってるじゃないか……幽霊だよ」
 その言葉に背筋がぞぞぞぉっとする。実は、一平はそういう話があまり得意ではないのだ。
「ま、まじっすか」
「うん……何人も目撃者がいるんだよ。なんでも昔、この辺りで温泉宿を経営していた女主人の幽霊らしいんだが、経営難を苦に金鱗湖で入水自殺したらしくってねぇ……」
 思わずゴクリとつばを飲み込んだ。けれどおじさんは、
「おっと、もうこんな時間だ。行かないと。すまないね、先に失礼するよ」
 と、立ち上がって行こうとする。ぱっと荷物を抱え引き戸を開いて、さぁ出ようとするまさにそのとき――しつこくも、また振り返った。
「そういえば君は、学生の一人旅だったよね?」
「は、はい、そうっすけど」
 ニヤリ、とおじさんは不敵な笑みを浮かべ、
「それじゃあ――出るかもね」
 ……ツーっと、冷たいものが背筋を流れる。けれどそんな一平の様子には頓着せずおじさんは、「それじゃ、達者でね」と手を振りさっさと出て行ってしまった。
 あとに残されたのは、おじさんの話にしっかりびびりまくりの、一平一人。
 ――うーわっ。なんだよ、幽霊が出るって。こ、こ、怖いじゃねぇか。そもそも、学生の一人旅だから、出る、ってどういうことなんだ? 何か根拠があるのか?
 そんな風なことに思いをめぐらせていると、一人でこんなボロい露天風呂につかっていること自体、めちゃくちゃ怖くなってきた。ポツリ、ポツリという滴の垂れる音にもいちいち背筋が凍る。湖の方を見ていても、その背後で幽霊がわさわさ蠢いてるんじゃないかと思うと気が気じゃない。時折ちかちかと明滅する蛍光灯の明かりの薄暗さが、最悪に嫌な感じだ。
「はぁ……なんだよ、まったく」
 と一平は、露天風呂のへりにもたれて、金鱗湖のほうを見ながらぼやく。
 ――そのときだった。
 金鱗湖の上にもくもくとたっていた湯気が、なにやらふしゅらふしゅらと円を描き出したのである。まるで、屋台のわたがし機でくるくるとわたがしを作るかのようにぐにゃぐにゃ揺れ動きながらそれは、次第に形を作っていく。一平は思わず我が目を疑いごしごしと目をこすってみたが、それは錯覚でもなんでもなくって、確かに白い形が浮いてる。
 ――な、なんじゃありゃあ!
 やがてその白い物体は、標的を見つけたかのように一直線に進む――そう、露天風呂にいる一平のほうへ。
 お、女の幽霊だ!
「うわぁあ、で、出たぁ!」
 腰を抜かした一平は、ざばあんと音を立てて湯の中でひっくり返った。女の幽霊はそんな一平のまん前へついとその頭をもたげる。
 幽霊は、ひどく恨めしげな声でこう言った。
「ちゃんと料金払え〜」

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