赤い如雨露(じょうろ)
娘の美奈を連れて家を出た。離婚は覚悟の上だった。
結婚する前から姑とは上手く行かないのは分っていたものの、夫の実家の財産がいつか自分達のものになるという下心がどこかにあった。
だが、もともと同居など私に出来る筈がなかったのだ。こうなればある事ない事を理由にして、慰謝料をがっぽり請求するまでである。
東京の大学に進学してアパート暮らしをしてからそのまま就職,結婚となったので、実家には毎年里帰りはしていたものの、自分の生まれ育った街にこうして戻る決心をしたのは始めてである。
最初は、ご近所に体裁が悪いと渋い顔をした両親も、孫可愛さと老後の不安もあったのか、私が戻ってくる事を早くも受け入れる気になりだしているようであった。
とりあえず二階の自分の部屋に布団を敷こうと押し入れを開け、棚の上から夏用のシーツを取りだそうとした時、ちゃりんという音をさせて何かが落ちた。
隅でパジャマに着替えていた美奈が
「おかあさん、これ自転車の鍵だよね?!」
と取り上げて見せた。
「どうやら子供用の自転車の鍵みたいね…… どうしてこんなところにあるのかしら?」
そう自分で言った瞬間、まるでビデオテープが逆戻しされるかのようなスピードで遠い昔の事が思い出され、口の中に錆びの味が一気に広がった。
(そうだ、あの時の鍵に違いない)
思い出した途端、美奈がそれを持っているのが酷く汚らしく見えて、毟るように取り上げると、網戸を開けて隣の家の屋根を目掛けて投げ捨てた。
闇の奥で金属音がかすかに響いた。
何が起こったのか一瞬分からず泣き出しそうな顔をした美奈を急き立てるように床に付かすと、階下に降りて冷蔵庫から缶ビールを取り出し、台所のテーブルにひとり座って一息に飲み干した。
玄関の方では電話で話している母の声が響いていた。
どうやら夫と話しているようで、ひとりっ子で我が侭一杯に育てたから言い出したらきかない、ちょっと様子を見ようという事で話がまとまっているようだ。
しかし今の私にとっては、そんな事よりもどうしてよりによって今頃あの鍵が出てきたんだろうと、そっちの方が気になっていた。
あれは小学校二年まで同じクラスにいた幸恵の自転車の鍵に違いなかった。
赤ら顔でいつもオドオドとした目つきをしており、何を遣ってもクラスでは一番最後だった。側に寄ると湿った布巾の臭いがしたので、クラスの皆からは疎ましがられていた。
私はというと幸恵の席の隣だった為に、クラスの担任の先生から幸恵と仲良くしてあげてと言われていたので、気が向いた時には、ちょっと相手をしたり世話を焼いたりもしてあげていた。
まあただ単に、先生に良く思われたかったのと幸恵といると優越感が味わえたからだけだったと思う。
それを幸恵本人は私の好意だと誤解をしていた節があり、何か話したそうにこっちを伺っている事がよくあった。
幸恵とは算盤塾も一緒だった。
あの日算盤塾では、毎月行われる暗算検定の答案を返して貰う日だった。
私は暗算はあまり得意ではなく、三問の間違えがあった。
ところが塾の先生が、幸恵が満点を取った事を皆の前で発表したのだ。
一瞬、胸が詰まって息が出来なくなった。
(幸恵が満点?!)
俯いて恥ずかしそうに赤面する幸恵の顔に吐き気を催し、先生にはトイレに行きたくなったと告げて、そのまま自転車置き場に向った。
幸恵は鍵を良く無くすので、自転車にはいつも鍵を掛けていないのを知っていた。
私はそっと幸恵の自転車の鍵を抜き取り、自分のポケットの中に入れて急いで教室に戻った。
塾が終ってさあ帰ろうとした時、幸恵は途方に暮れ自転車の隣で呆然と立ち尽くしていた。
私は知らない振りをして、その日はそそくさと塾を後にした。胸にあったつかえが取れてほっとしたのを覚えている。
愚図で間抜けな幸恵は、間違っても私より優れていてはいけないのであった。
途中で鍵を捨てようかとも思ったが、子供ながらに捨てたところを誰かに見られるのが恐くて、結局自分の部屋の押し入れに隠したのだった。
その鍵が今頃出てきたのだ。
あの湿った布巾の体臭をふと思い出し、苛々して気分が悪くなってきたのを吹っ切るように、冷蔵庫からもう一本缶ビールを取り出した。
翌日から両親は、予てから計画していた二泊三日の温泉旅行に出かけて行った。
勝手知ったる実家は、親がいないとなるとなお更住み心地は快適である。
午後はのんびりと茶の間で寝転びながらワイドショーを見て過ごした。姑と暮らしていた時はさすがにこんな事は出来なかった。
美奈は近所の公園に遊びに出かけて行った。私も小さい頃、良く遊びに行っていた公園だ。
私の頭の隅にふっと、ジャングル・ジムの影に立っていた幸恵の姿が浮かんだ。
私と友達が砂山遊びをしているのを仲間に入りたそうにじっと見つめていた幸恵の姿である。そういう時、私は決して誘わなかった。どこかでそんな幸恵を楽しんでいたのだと思う。
そんなある日、私がひとりで公園の砂場にいるところに、幸恵が金魚の形をした赤い如雨露を持って遣ってきた。
前日の縁日で、私が両親にねだっても買って貰えなかったものだと直ぐに分かった。
私はその瞬間、自分の内側で強い怒りが湧き出したのを今でも覚えている。
私が買って貰えなかった如雨露を、幸恵が持っている事が許せなかった。そしてそれに嫉妬している自分も許せなかったのだ。
いきなり幸恵からその如雨露を取り上げると、公園のフェンスの向う側に思いっきり放り投げてやった。
その向うは用水路になっていて、赤い金魚の如雨露はゴミ除去用の鉄柵の辺りでくるくると水に揉まれていた。
私は幸恵にくるりと背を向けると、その後遣ってきた他の友達を誘ってその日はすぐさま公園を後にしたのだった。
そして結局、それが生きた幸恵を見た最後になった。その日の夜遅く、その用水路で死体として発見されたのである。
母親の話だと、大方落ちた如雨露を取ろうとして逆さまに落ち、水路のコンクリートで頭を強打したんだろうとの事だった。
私はもちろん、誰にもその日の話をしなかった。
私が欲しかった赤い如雨露を見せびらかしたのだから、自業自得だと思う事にしたのだった。
そしていつの間にか、私にとって幸恵という人間は遠い記憶の彼方に封印された存在となっていたのである。
それが自転車の鍵を使ってぼんやりと輪郭を現してきていたのに、その時の私はまだ気が付いていなかったのであった。
いつの間にかうたた寝をしていたみたいで、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
美奈がまだ戻ってきていない事に心臓がどきっとした瞬間、玄関の方から、ただいま! という元気な美奈の声が聞こえてきてほっとした。
「直ぐ夕飯にするから、手を洗ってきなさい」
と告げて、有り合せの夕食を用意し食卓についた。
「美奈、随分遅くまで公園で遊んでいたのね。何して遊んでいたの?」
「お友達と砂遊びしたの」
「まあっ、さっそくお友達が出来たの?」
「うん、赤い如雨露貸してくれたのよ。金魚の形してて可愛いいの」
その言葉を聞いた瞬間、持っていたご飯茶碗が手から滑り落ち、卓袱台の上で真っ二つに割れた。
「そのじょっ、如雨露どこにあるの?!」
「うん? ほらここにあるよ。でも大丈夫、後で取りに来るって言っていたから」
美奈が座っている脇から取り出した赤い如雨露は、間違いなくあの日、用水路でくるくる水に回っていたあの如雨露だった。
その瞬間、きーんと強烈な耳鳴りがした。
思わず耳を押さえた両手から最初に漏れるように聞こえてきたのは、濡れた靴をぐしゅぐしゅといわせてゆっくりと廊下をこちらに向ってくる小さな足音だった。
〔 了 〕
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