天狗露


 伝助は夜の山道を落ちるように走っている。
 深く速い息遣いは喉を擦り続ける。跳躍する足の運びは、静寂の森に秋草を叩き起こすように高く響く。風が葉擦れの音となって後を追いかけてくる。その風は、走る伝助が巻き起こしたものなのか。
ひたすらに走り続ける。麓も近い、森の入り口に目印として焚いておいた篝火が見えた。

 森に行こうと言い出したのは四郎だ。弥吉もついてきた。伝助は妹の鈴が心配で家にいたかったが、やはり出てきてしまった。菊の露があるのなら、そいつを見てみたいし、飲んでも見たい。何より、鈴の病に効くかもしれない。三つ下の鈴は数えで八つ。まだ死ぬには早すぎる。
 傾斜のきつい森の道を登る。二人きりの兄妹、鈴がいなくなったら父ちゃんも母ちゃんも悲しむ。爺ちゃんと婆ちゃんは泣くだろう。
「菊の露はどんな味かな」
 木の枝を振り回しながら弥吉が呟いた。
「延命息災の妙薬なんだから、きっと苦かろ」
 四郎は先頭を歩きながら、後ろも振り向かずに言い、さらに続けた。
「いいか、今日取る菊の露はな、お鈴ちゃんの為に取るんだぞ」
「ああ、分かってるけどさあ、お医者はもうだめだって言ったんだろ」
「そんなことはない!」四郎は声を荒げた。
 森の最奥の岩場には岩紅菊が咲く。その紅菊に秋の満月から夜露が降りる。その露を飲んだ者は不老長寿の命を得ると言う。それが、岩紅菊の伝承だった。しかしこれまで、菊の露を飲んだ者はいない。
「おい、ここからは岩場だぞ、気をつけろよ」
 四郎が皆に注意した。山道が終わり、目の前には三角の巨岩が、月に向かって伸びるように峙っていた。
 峻険な岩道を這うようにして登りきると、平らに開けた所に出た。奥には、月光に縁取られた一輪の紅い花が、月の雫を残らず受け取ろうとするかのように、大きく花弁を開いていた。
「これが、岩紅菊」伝助は荒い息で呟いた。
「さあ、これで露を取るんだ」
 四郎は袂から袋を取り出した。伝助はそれを受け取り、中から片手に余る綿をつまみ出し、吸い尽くすほどに吸わせた。それを袋に戻す。それでもまだ、露が涸れることはなかった。
「ちょっと、飲んでみよう」
 弥吉が花に口を近づけたとき、風が鳴った。旋風が巻起こり、大太鼓を叩くようなどどん、という音がしたかと思うと、風の中から大きな黒い影が現れた。
「それは、俺の物だ」
 影の声は腹の底に響いた。そのとき伝助は全く違う別の声を思い出していた。嗄れた婆ちゃんの声。岩紅菊の伝承の続き。――岩場に近づくな。天狗に食われるぞ。
 満月を背にした大男の表情はよく分からない。しかし大きな両の目と顔の真ん中から突き出ている高くて赤い鼻が見えた。
「天狗だ!」
 弥吉は叫んだまま、腰を抜かして座り込んだ。
 伝助は動けずに大男を見つめていた。大男の目が地べたの弥吉に注がれたとき、伝助は四郎に引っ張られ、もと来た道へ勢い良く送り出された。足が縺れ、岩の下へと転び落ちそうになる。足を踏ん張る伝助の背中に、四郎の叫びが叩きつけるように聞こえた。
「そいつをお鈴ちゃんに飲ませてくれ」
 振り向くと、四郎は小刀を抜き、大男の懐へ飛び込んでいった。
 伝助は目を戻すと一目散に走った。急な岩道を転がるように降り、草深い山道を落ちるように走った。四郎が伝助の背を押している気がした。

 息を切らし、篝火まで辿り着こうとしたとき、風が伝助を追い越して、篝火の炎を消した。低い轟きが鳴る。その途端、篝火の脇に四郎と弥吉が転がり出た。伝助は立ち止まった。
「四郎! 弥吉!」
 返事はない。
 二人の後ろの闇から大男が一歩進み出る。
「それは、俺の物だ」地面が震えた。
「頼む。お鈴が死にそうなんだ。こいつがないとだめなんだ!」伝助は声を限りに叫ぶ。
「爺に薬をやった。露は俺の物だ」
「え?」
 大男は右手を軽く振った。横から強い風が吹きつけ、手に持っていた袋を舞上げた。あっ、と叫ぶ間に袋は弧を描いて大男の手に落ちた。
「これを持っていけ。俺は間に合っている」
 大男は懐からなにやら取り出すと、伝助の胸元へ投げてよこした。油紙の包みだった。
「これは?」
 大男は、その問いには答えず、大太鼓の音と共に旋風の中へと消えた。伝助の脇を大風が走り、山を吹き上げ、森が揺れた。受け取った包みは菊の露よりも重たかった。
 四郎と弥吉はすぐに目を覚ました。村の田圃道を三人で走り、虫の声に稲穂が揺れるのを聞きながら伝助の家へ向かった。
 家に入ると、遅い時間なのに皆起きていて、囲炉裏を囲んでいた。囲炉裏奥には父ちゃんがいて、右の横顔が火に炙られ赤く揺れている。口を大きくへの字に曲げて目を伏せている。父ちゃんの向こうでは、母ちゃんが、囲炉裏の中でぱちぱち跳ねる豆殻を火箸で掻き混ぜている。手前では、向こうを向いた爺ちゃんの背中に、婆ちゃんがどてらを掛けた。
「お鈴はどうだい」
 母ちゃんがこっちを向いた。そのとき、奥の寝間の襖が開いて鈴が出てきた。
「お腹空いた」
 小さなその声には、しかし張りがあり、出がけに聞いた蚊の啼くような、か細いものではなかった。駆け寄って行くと、鈴のほうから伝助に抱きついてきた。顔を覗き込むとにっこりと微笑む。死の病は影形なく消えた。
「よかったなあ、お鈴」
「ただなあ」父ちゃんが大声が出す。「爺ちゃんがなあ」
 そう言って黙ってしまう。伝助は爺ちゃんを見た。――その顔には、目の所に二つ、真っ暗な大穴が口を開けていた。伝助は、うわっと叫んで飛び退り、襖にぶつかり、鈴が寝ていた布団の上に襖ごと倒れた。今まで土間で成り行きを見守っていた四郎と弥吉も、ザッと走ってきて土間から爺ちゃんの顔を覗き込み、あっと叫んだきり固まっている。
「実はなあ」爺ちゃんは鈴を膝の上に抱き寄せ、驚いている三人とは対照にゆっくりとした声で話し出した。天狗に鈴の快復を頼みにいったこと。天狗に薬をもらったこと。その代価として、目ん玉を刳り貫いて差し出したこと。父ちゃんと母ちゃん、それに婆ちゃんはもう知っているようで囲炉裏の火を見つめるばかりで何も言わなかった。
 伝助は襖の上に正座して聞いていた。爺ちゃんの話が終わろうとするとき、伝助の懐がカサカサと動いて、紙包みが布団の上に落ちた。落ちた拍子に、包みが破れて、二個の玉が板の間をごろごろと転がった。玉は蛞蝓みたいに汁を引いている。皆の顔が毒虫を見たように、一斉にゆがんだ。その二個の玉は、敷居の段差まで転がると、ぴょんと跳ねて、飛び越えた。一度跳ねると跳ね続け、最後に一際大きく飛ぶと、爺ちゃんの暗い窪みの中にすぽりと入った。「痛い!」爺ちゃんが叫んだ。二個の玉は爺ちゃんの目の所でぐるぐると別々に回っていたが、しばらくすると黒目をこちら側にして止まった。爺ちゃんは三度瞬きをすると、「見える」と言って目を擦った。そして、鈴の方を向いて「見えるぞい」と目を見開いた。
 その場にいた他の者は皆、ぽかんと口を開けていた。

 このときから、伝助は天狗に親しみを感じるようになった。でも村の人は、相も変わらず、天狗に食われるから岩場に行くなと言う。伝助は、その戒めを聞く度に少し天狗を弁護したい気もするけれど、口を結んで何も言わない。
 爺ちゃんも少し変わった。大笑いするとき、大きく目を剥くようになった。また落ちやしないかと冷や冷やする。

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