月草


 新しい夏が訪れるたび、僕は露草の花を見つけては引き抜き、踏みにじる。その花の色は儚く、そして寂しい。

「ああ、早く行きたいなあ。すっごく楽しみ」
 葉月は麦藁帽子の下から輝くような笑顔を見せた。
 六月の中旬。僕と葉月は大学生として、そして恋人として初めて迎える夏休みに長野へ行こうと計画を立てていた。僕達は旅行の打ち合わせをするために、石畳の歩道を僕のアパートに向かって歩いていて、いつの間にか大きな屋敷の前まで来ていた。

 その屋敷は「露草の館」と呼ばれていた。煉瓦造りの古い洋館で、屋敷の庭は背の高いフェンスに囲まれていた。
 何故、「露草の館」なのか。この屋敷には広い庭があるのだが、何故か木は一本もない。花壇もなければ池もなく、雑草で一年中庭全体が埋め尽くされていた。
 露草だ。それ以外は何も生えていない。一メートル位の高さまで生い茂った露草はフェンスの外にまで脱出しようとするかのように葉を伸ばし、夏になると一斉に花を咲かせた。この屋敷は三十年程前に持ち主が自殺し遠縁の親戚の所有物となっていたが、近々土地を売却する為に取り壊されるという噂があった。
 
僕達が屋敷の門扉の前を通り過ぎようとした時、一陣の風が巻き起こり、葉月の帽子をあっという間に攫っていった。帽子はふわりと舞い上がって門を越え、生い茂る露草の海の中へと姿を消した。
「どうしよう……」
 葉月はしばらく考えていたが、やがて意を決したように屋敷の門へ歩いていった。
「止めなよ、葉月!」
「大丈夫よ。庭の中を探させてもらうだけだから」
 葉月が手を掛けると、鉄の門扉はいとも簡単に開いた。鍵は掛かっていなかった。僕はしかたなく彼女の後に続いた。僕達は露草を掻き分け、道を作りながら帽子を探し屋敷の方へと歩いていく。露草はさわさわと波のようにうねり、ざわめいた。僕は突然、背後に人の気配を感じた。振り向くとそこには恐ろしいほど痩せこけ、露草色の着物を着た少女が立っていた。十二、三歳くらいだろうか。落ち窪んだ眼窩の奥の目は井戸の底のように暗い。葉月はその子を見るとそっと近付いて、「どうしたの?」と優しく話し掛けながら身を屈めた。少女は突然、骨のような腕を伸ばして葉月の腕を掴んだ。
 
葉月はちょっと顔を顰めた。と同時に身体全体がびくりと大きく痙攣し、のけぞった。
 葉月の顔が激しく歪み、呻き声を上げた。何が何だか分からないまま僕は少女を突き飛ばし、葉月の身体を抱きかかえた。ビルが解体される為に爆弾を仕掛けられ、爆破されて建物全体が滑るように沈んでいく映像を見たことがあるだろうか。あれとそっくりなことが葉月に起こったのだ。
 彼女は足先から見る間に黒く縮れて変色し、溶けて地面に吸収されていく。腰が溶け、胸が溶け、ついには頭が溶けていった。僕には成すすべもなかった。頭全体が痺れたようになって、彼女の存在自体が消えうせた後でも僕はじっと地面を見詰めつづけていた。

「翔……」
 その声に僕は我にかえった。先ほどの少女が不安げな顔で僕を見ていた。だがその顔はもう痩せこけてはいなかった。ふっくらとした頬、艶のある髪、その顔はまぎれもなく葉月だった。
「翔、あたし……どうしちゃったんだろう?」
 どうしてそうなったのかは分からない。だが、僕は彼女が葉月になってしまったことだけは分かったのだ。
 葉月の手を引き、屋敷の玄関へと向かった。屋敷に入れば何か分かるに違いない。玄関のドアは少し手を触れただけで待ち構えていたかのように開き、僕達は暗いホールへ足を踏み入れた。ホールを横切り、正面にあるドアを開けるとそこは書斎だった。大きな窓があるので中は意外なほど明るい。窓際の机の上に古い革張りの日記帳が置かれていた。うず高く積もった埃を払うと表紙には三十年前の年号があった。青いインクで書かれた日記の最後のページにはこう書かれていた。 

五月×日
 日記をつけるのも今日が最後だ。十年前、妻が永遠の命を願い庭で邪悪な儀式を執り行った為に、ただの雑草だった露草は魔物へ変貌してしまった。妻は露草の呪いを受け、その年から私達の常軌を逸した生活が始まった。私は今日、その狂気じみた繰り返しを終わらせる。もう、二度と新しい「種」が生まれることはない。将来ここへ住むことになる誰かに同じ災厄が訪れないとも限らない。その時の為に私はこの日記を残そうと思う。

「……これ、どういうこと?」
 横から覗き込んでいた葉月が呟いた。僕達は日記を遡って読んだ。そこにはこれから葉月に訪れるであろう運命が全て記されていた。
 
 僕達は夜中になるまで待ち、日記帳を持って屋敷を後にした。
 僕は数日後、露草の館の前を通りかかった。屋敷の庭には数人の工事関係者が入り込んで除草剤を噴霧していた。
 そうだったのか。露草の魔物は死にゆく運命を悟って少女に姿を変え、葉月の身体を溶かして養分を奪い取ると少女の身体に葉月の魂を閉じ込めたのだ。

 露草は午前中に鮮やかな青い花を咲かせ、午後になるとその花は溶けて内部に吸収され、次の花の栄養源になる。葉月は露草の花と同じ運命を辿っていた。
僕は昼間バイトに出て、食料品を買って部屋に帰る。人に見られたらまずいことになるから、と彼女はけっして部屋から出ようとしなかった。葉月は六月の下旬には元の葉月と同じくらいにまで成長していた。その頃から僕達は毎夜ベッドを共にし、一晩中愛し合った。彼女がずっとこのままでいられるようにと願いながら。でも、日ごとに葉月は年を取っていく。白髪が増え、皮膚には否応なく皺が目立ち始め、彼女は鏡を見ては涙を流した。部屋の中で膝を抱えて両親に会いたいと口癖のように呟いた。葉月を医者に見せるべきだったろうか。いや、そんなことをしたら僕は葉月を殺して少女を誘拐した犯人にされてしまっていただろう。葉月は世間の好機の目に晒されて死んでいくしかなかっただろう。

 八月の最後の日。すっかり年を取った彼女は真夜中に僕の手を取って露草の館へ向かった。更地になった屋敷の庭には、朧気な月の光だけが満ちている。葉月は庭の真中に立ち、僕を見て寂しげに微笑んだ。
「さようなら。今までどうもありがとう」
 僕は、か細い葉月の身体を強く抱きしめ、声を上げて泣いた。
「ねえ、お願いがあるの」
 葉月はそう呟き、そっと目を瞑った。
「あたしは翔と暮らせて幸せだったから、だから、もう……」
 彼女の身体は僕の手の中で次第に小さくなって崩れ、土に返っていった。
 
 すっかり彼女が消えてしまったとき、僕の足元で何かが光った。それは小さなガラス玉で、拾い上げると月のように淡く青い光を放った。これがたぶん、日記で書かれていた「種」なのだ。
 僕は「種」をアパートへ持ち帰った。翌年の夏、この種は成長を初めて新しい命となる。そして早すぎる成長と死を迎える。繰り返し、繰り返し。露草が次の花に命を繋ぐように。そしてその度に葉月は過去の記憶を宿したまま蘇る。また彼女と暮らすことが出来るのだ。でも、それはたった三ヶ月。彼女は外に出ることさえ出来ずに一生を終える。
 
 もう迷いはなかった。「種」をテーブルに置くと僕は押入れからハンマーを取り出してきた。僕の手の下で砕け散った「種」の欠片は空中に舞い上がり、青く輝きながら最後のダンスを踊り、そして消えていった。

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