水


 猫は背骨を後ろに撓らせ体の右側を下にして倒れた。傍にかがみ込んで様子を見る。腹が忙しなく上下している。目は遠くを見ていた。この公園から逃げ出す道を探しているかのようだった。ぴくんと一つ痙攣すると左前足が空を掻くようにゆったりと円を描いた。もう一度首の付け根にスタンガンを当て、今度はずっと長くスイッチを押し続ける。猫は背筋をピンと伸ばして細かく震え続けた。体毛が焦げて黒くなる。鼻を衝く臭いが広がってきたところでやめた。今度はポケットからカッターナイフを取り出し、腹に刺した。猫はもう死んでしまったのか僅かも動かない。刺したカッターを縦に切り上げ胸まで裂いた。どろりとピンクに輝く内蔵がアメーバのように這い出てきた。そのとき、公園の時計が朝八時を知らせる鐘の音を放送した。ざらついた録音の鐘が鈍色の空の下、たれ込める雲に低音部だけを木霊させるように響いた。猫を踏みつけると口と肛門からプシュと勢いよく黒い液体があふれた。
 田上雪人が精通を経験したのは小学校四年生の時だった。それまでも性器に触ることにより快感を得ることを知っていた彼は、毎夜、布団のなかで股を擦っていた。夏の初め、薄いタオルケットにくるまり、いつものように手でこすると突然我慢できないほどの排尿感におそわれた、その激流は常日頃小便を我慢しているときの比ではなかった。彼はベッドから飛び起き、パンツのなかにつっこんだ手もそのままに、二階の自分の部屋から階段を駆け下りトイレへと飛び込んだ。しかし、我慢しきれず階段や廊下に透明な液体を点々とまき散らした。かろうじて手で受け止めた温かな液体は無色透明で少し粘りけのあるお湯という感じだった。それを便器に捨てカラカラと音をたててトイレットペーパーを巻取り手を拭く。
 雪人は突然自分の意志に反し排尿を行ったこれは――自分の性器は「壊れてしまった」のだと思った。絶望感のなかにも、階段と廊下に垂れた小便を拭かなくてはならない(ママに見つからないうちにきれいにしなくては!)その思いに駆られトイレを出た。自分は壊れてしまったという認識は彼の心に重い陰を落としていた。点々と廊下に垂れる水滴に視線を注ぎ(どうして? どうして?)そればかりを考えていた。水滴はただの水よりも表面張力が強いのか、真球に近いほどに円く盛り上がって廊下に落ちていた。蛍光灯の明りを反射して輝いている。やがて不安は怒りへと変容していく。(どうしてなの?) そのとき不思議なことが起こった。廊下の水滴が浮き上がったのだ。水滴はゆらゆらと揺れつつも球形を保ちつつゆっくりと上昇していく。しかし彼は、その透明な水滴を見つめながらも、自分自身のことを考えていた。(僕は壊れてしまった) 浮き上がった水滴を睨む。すると水滴の周りには別の水滴が現れてきた。あの我慢しきれずに零れてしまった温かい液体だけではない。たくさんの水滴が集まってきていた。やがて水滴同士は重なり合い、膨れあがり充溢してサッカーボール大の一つの水の玉となった。周囲の光を集めゆらゆらとたゆたう光を廊下全体に投影している。(僕は人間じゃないんだ!)雪人の悲しみが爆発したとき、水の玉も輝きを強めたかと思うと一瞬の内に破裂し弾け飛んだ。辺りは水浸しとなった。雪人の体はそれにも増してびしょ濡れだった。汗を掻いていた。雪人はこのときから、性に目覚めるのと時を同じくして水を操る自分の能力に目覚めた。そして今、中学生になって好きな女の子ができた。
「あいつ、いつでもピリピリしてるよね。冬のドアノブの静電気みたいに、触るとやばいって感じ」
「そうそう、目合わせないほうがいいよ。もー、どっかで死んでくれって感じじゃない」
「なんか、時々汗が凄いじゃん。それも嫌だよね。なぜかすぐ渇いてんだけどさ」
「体温高めなんじゃないー。気持ちわるいー」
 友人の女の子達が田上雪人に対する悪評で盛り上がるのに相槌を打ちながらも、仲間麻梨亜だけは田上の細い首筋をずっと眺めていた。麻梨亜は教室の窓寄りの後ろの席だ。田上雪人の席は前から二番目、麻梨亜のほぼ対角線上にあり麻梨亜が席に座り右斜め前を見ると田上の姿がよく見えた。見つめていると田上の首筋に汗が一筋走った。それも背中から首の横を斜めに這い上がって頬を登り口元へと流れ込んでいくように見えた。一瞬、登ってきた液体を迎え入れるかのように田上は口をすぼめた。麻梨亜は鼓動が早まるのを感じた。(まただ)そう思った。麻梨亜は田上雪人に夢中だった。
 麻梨亜を放課後の屋上に誘ったのは雪人の方だった。雪人は愛を告白した。そして「私も気になってたんだ」という麻梨亜の言葉とその微笑みに有頂天になっていた。麻梨亜は両手を後ろ手に組んで左に首を傾げながら、満面に豊かな笑みを湛えていた。この子は僕のことが好きなんだ。雪人は直感した。すべてを受け入れてくれる女性だ。一陣の風が麻梨亜の背中から吹きつけて彼女の髪の毛を立ち上がらせ、彼女の顔の周りを鬣(たてがみ)のように包み、夕陽が後ろから差し込んで夕闇色に輝いた。麻梨亜は首を左右に振っただけで髪の乱れを直し再び雪人に微笑みかける。
 雪人は話し出した。自らの忌まわしい力のことを。麻梨亜はずっと微笑み続けている。そのことに雪人は力を得て、能力を実演して見せた。
「ほら、見て」
 雪人が手のひらを下にして腕を肘の高さまで上げると、辺りの空気は急激に乾いていき、雪人の手の下にだけ小さな雲が出来た。それはやがてバスケットボールくらいの一つの水の玉となり、暮れゆこうとする屋上の景色のなかにゆらりと輝いた。手のひらに精神を集中していた雪人が麻梨亜を見やると、麻梨亜は驚いた風もなく微笑んでいる。雪人も顔を綻ばせた。
「汗も凄いんだけどね」
 そう言って雪人は自分の体の周りを眺めた。一ミリほどの薄い水の膜が体中を包んでいるのが分かる。汗なんてものじゃない。雪人自体が水の中に沈んでいるようなものだった。
「どう? 驚いた」
 雪人は少しはにかみながら聞いた。
「ううん、知ってたよ」
 麻梨亜の答は雪人にとっては意外なものだった。
「だって、教室でもいろいろ変なの見たもの」
 麻梨亜は言い訳するように付け加えた。
 確かに、雪人は自分の能力を簡単に使いすぎていたかもしれない。いくつも思い当たる節がある。今後は気をつけようと思った。そのとき、雪人の思考を中断するように、小さな声だったが、鋭い声で麻梨亜が言った。
「あたしも、黙ってたことがあるの」
 麻梨亜は一歩雪人に近づくと左に傾げていた首を今度は右側へ倒した。そして後ろ手に組んでいた両腕を解いて体の前に差し出した。
「あたし、害獣駆除が趣味なの」
 そう言った麻梨亜の右手に紫の電光が閃いた。左手には大きなカッターナイフが光を翻していた。雪人は自分の体を包み暴れ回る紫の電光を見た。自分の放つ光を受けて青白く輝く麻梨亜の笑顔を美しいと思った。麻梨亜の左手のカッターナイフが下から上へと切り上げられた。
 雪人は自らの臓物の海に漂いながら世界のすべてと自分自信が、白い輝きに飲み込まれ消えていくのを感じていた。告白をしたんだ。もう死んでもいい。その思いだけが雪人の心を幸福で満たしていた。

〈了〉

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