海上


 鏑木洋介はきわめて根の深い人間嫌いに違いない。新しい部署に配属になって数ヶ月になるが、意識的に人との距離を保ち、他の同僚との会話も最小限の言葉を選んでしているようだ。
 ところがある日、同僚のひとりがそんな鏑木を、強引に酒の席に誘い出してしまった。もっとも、鏑木は相変わらず不機嫌そうな顔をして、そこにいるだけのことである。
 すると、鏑木の態度を日ごろから快く思っていない同期の芝浦が、横に座って執拗に絡み始めた。彼の言い分は単純明快である。お前は無口すぎる、ということだった。
「君には関係ないことだ」
 鏑木のぶっきらぼうな言葉が、酒の回った芝浦の理性を吹き飛ばした。芝浦は鏑木に飛びつくと、胸倉を掴んで締め上げるようにした。周りはただ慌てふためくばかりである。
「お前のそのすました顔が気に入らん」
「何度も言うが、それは俺の勝手だ」
 言いながら鏑木は芝浦の手を払った。それが酒で熱を帯びた芝浦をさらに激怒させた。
 芝浦は「俺の話を聞け」としつこい。鏑木はついに我慢できなくなって、その場を離れようと立ち上がった。そこに芝浦が取りすがって、二人は絡まるようにしながら部屋を出た。同僚たちは彼らの勢いに圧倒されてしまい、ただ青ざめた顔で見送る他はなかった。

 ――が、夜風の冷気は、鏑木と芝浦の興奮を醒ますのに充分といっていいほど役に立った。先ほどの居酒屋の出口を後ろに振り返りながら、鏑木がすでに落ち着きを取り戻した声で言った。
「それほどまでに言うのなら、僕の秘密を教えてやる。歩きながらでいいか?」
「ああ、それはかまわんが……」
 芝浦のほうも先ほどの昂ぶりは薄れている。鏑木はしばらく立ち止まって、
「僕は人殺しだ。何年か前に人を殺したことがある」
 と、驚くべきことを口にした。芝浦はたちまちのうちに自分の体から酔いが抜けていくのを感じていた。
 触れてはならないものに触れてしまった。言い知れぬ不安感が芝浦を締め付けた。
 街の喧騒はすでに遠くになっている。底の見えない暗闇が、まるで投網のようにふたりを絡め捕り、周りの世界を覆い尽くしていた。
「どういうことだ」
「昔、僕は海の上で溺れている男を見捨てたことがある。そのトラウマが僕をずっと苦しめているんだ。その事件以来、僕は人と必要以上に関わりあうのが恐ろしくなった」
「そんな過去があったのか。だが、その思いを一生背負っていくわけにはいかないだろう」
 もはや知らぬ顔も出来ない、という気持ちが芝浦の好奇心を刺激した。詳しく話してくれ、と彼は言ったが、鏑木はそれから長い間、一言もしゃべらず歩き続けた。
 だが、鏑木の心も揺れていた。
「それは恐らく、誰にも責められることはない判断だった。そうでも思わなければ、僕の心は罪悪感で押しつぶされてしまうだろう」
 鏑木はそう前置きして、ついに驚くべき話を語り始めたのである。
「あれは三年前、夏の海水浴場での出来事だった。そのとき僕は友達と離れ、いつの間にか海岸が見えなくなるほど遠くまで泳ぎに出ていたんだ。夏の日の激しい光線に照らされて、海面はどこまでもきらきらと輝いていた。と、その波間にひとりの男が泳いでいるのが見えてきた。というよりも、男は海上にただ漂っているようだった」
 鏑木の顔がみるみる青ざめた。その時の恐怖を思い出して、懸命に絶えているように見えた。
「男に近づき声をかけようとして、顔を見た僕は仰天した。恐ろしい骸骨、何と言うか、骨だけの顔のようにしか見えなかったからだ……」
 芝浦の背筋に冷たいものが走った。こんなところで怪談を聞くなんて思いもしなかった。
「骸骨だって」
「……いや、今となっては本当にそうだったのかどうか。ただ、そのとき、その骸骨が僕の気配に気づいて、どこまでも暗い穴にしか見えない両目でこちらをじっと見たように思った。僕は悲鳴を上げた。それから、一目散にその場を逃げた。競泳選手のような抜き手で、死に物狂いに泳いだ」
 鏑木は息もつかない。
「だいぶ離れたところで立ち泳ぎになり、恐る恐る今来た方角を振り返ると、あの骨男は相変わらず同じ場所に漂っていた。しばらくして、突然、水しぶきが上がったんだ。助けてくれ、という声が聞こえる。どう見てもあの骨男が溺れているとしか思えなかった」
 ふたたび二人を重い沈黙が包んだ。
「そのとき、見捨てたんだな。男が溺れているのを……」
「わからないんだ」と、鏑木は頭を抱えた。
「あれが本当に化け物だったのかどうか。考えれば考えるほど、骸骨に見えたあの一瞬はただの見間違いだったのかも知れないと言う不安が、常に僕の心を責め立てる。いつまでも、いつまでも……」
 ……鏑木が声をひそめて芝浦に尋ねた。
「君ならどうする、すぐに助けに行くかい?」
 もちろん、芝浦にも即答はできなかった。化け物の罠かも知れないという恐怖。人が死ぬのを見殺しにしてしまうかも知れないと言う恐怖。そのどちらの恐怖も想像を絶していた。
 鏑木がトラウマに取り付かれ、罪悪感から人を避けるようになった理由は、かつてそういう究極の選択を迫られたせいだった。彼は自分の良心と常に戦っていた。あるいは、自分が実は人殺しではないかという不安と戦っていたのである。
「俺なら助けに行くだろう」
 芝浦はふとそう思った。海上にそんな異形がいることが信じられないからだ。だがそれを言えば、この哀れな鏑木は罪悪感に捉われ、一生救われることはないだろう。

 と、そのとき、二人の視界に数人の男たちの集団が飛び込んできた。
 不良少年のグループがうらぶれた中年男性を取り囲んでいたのである。芝浦には彼らが何をしているのかすぐに理解できた。中年男が二人に気づき、助けてくださいと叫んだからである。と同時に、少年たちの凶暴そうな顔がいっせいにこちらを振り向いた。
 芝浦はこれこそ神様の采配に違いないと思った。
「助けよう」と、芝浦は隣の鏑木を見た。
「彼を助けて、君のトラウマを打ち破るんだ」
「……しかし」
「底のない悩みに捉われるよりも、運命と戦って未来を見るんだ。そうしないと、悔いが残るだけだ。君はひとりじゃない。俺もここにいるんだぞ」」
「わ、わかった……」
 鏑木は青ざめた顔で頷くと、次の瞬間、悲壮な決意を実行に移した。「やめろ」と叫びながら、弾けるように集団の中に飛び込んでいったのだ。
 少年たちがわっと散らばった。彼らはそれぞれに悲鳴をあげたが、それは別の恐怖に襲われていたからだった。
 芝浦は腕を掴まれている鏑木の姿を見た。そこにいるのは暴力に虐げられた可哀相な中年男ではなかった。実はとてつもない異形だったのである。
 男は骸骨の顔をしていた。骨男だ。
 芝浦は絶句した。
「今度は俺を見捨てないのか?」
 骨男は、決して空間を伝わる声ではなく、闇の中から頭蓋の中に直接響いてくるような不気味な声を出した。
 すでに少年たちは四散している。闇のスポットに照らされたような空間に、骨男に腕をつかまれた鏑木と、なすすべもなく立ち止まっている芝浦だけが残った。
「助けてくれ!」
 鏑木の叫びが、くぐもって途絶えた。彼は骨男に顔面をかじりとられ、あっという間に動かなくなった。骨男はさらに、その鮮血に染まった顔をきれいに舐め上げた。
 その下から剥き出しの骸骨が現れた。
 そのとき、芝浦はどうしたか。彼はただ、鏑木を見捨てて一目散に逃げた。

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