最終列車


 自覚はないが、有里康雄は相当酔っていた。飲み屋をはしごし、安い酒を浴びるように飲んだからだ。
 何もかも忘れたかった。昼間、上司を殴りつけたという事実、役員室に呼び出されて停職処分を言い渡されたときの屈辱感、自宅にそれを告げた際の妻の怒鳴り声、会社を出るときの皆の冷ややかな嘲笑……。それら、今日一日の全てを忘れるための酒だった。
 夕方早い時間から、吐いては飲み、吐いては飲んで、金が尽きて地下鉄の駅にたどり着いたときには、有里は常に波間に浮かんで漂っているような状態で、身体が前後左右にゆらゆらと揺れていた。街ゆく人々は、アルコールと吐瀉物が入り交じった据えた臭いを放つ有里を、大きく避けて通った。
 自分は、この社会に必要のない人間なんだ。有里は自嘲し、地下道のベンチでおのれを呪い、泣き、笑った。
 どのぐらいそうしていたか、いつの間にか有里は眠っていたようである。ふと気づくと、周囲が薄暗くなっていた。腕時計を見ようとして、酒代がわりに置いてきたのを思い出すと、舌打ちしながら地下道の壁にある時計に目を転じた。
 デジタルの数字が、全て「0」で点滅していた。
 十二時をまわったって事か……ち、終電が出ちまった。
 酔いの抜けぬ頭を振って毒づきながら、有里はタクシーを拾うために地下道から出ようと歩き出した。
 金を、コンビニかどこかで下ろさないと。
 ぼんやり考えつつ階段を登った先の出入り口に、鉄扉がしっかりと閉じられていた。窓にはめ込まれた鉄格子を揺すってみたが開かない。鍵がかけてあるのだ。
「檻の中のトラかよ」
 最初は皮肉をつぶやく余裕のあった有里だが、地上に通じる全ての出入口が閉ざされているに及んで、少々不安になった。「少々」なのは、まだ酔いが残っているからもあるし、地下のどこかには駅員が残っているだろうと思っているからだ。
 フラフラとした歩調で地下道を歩く。本来、こうした地下鉄への連絡通路にはいくつか店舗が設けられ、地下街になっていたりするものだが、ここにはトイレがある程度だ。それでも空調が効いているのか地下道はひんやりしており、一晩をここで過ごしても問題はないように思われた。しかし、こんなところに置いてきぼりをくらったという疎外感とも屈辱感とも言えるものが、有里に地下道に留まることを忌避させていた。また、万一不法侵入扱いにされた日には、それこそ一発解雇ともなりかねない。別段会社に未練があるわけではないが、連中に恥をさらした形で辞めさせられるのは我慢ならなかった。
 だが……妙だな。
 改札口付近まで戻ってきて、有里は違和感を覚えた。自動改札にも、その向こうのホームにも誰もいない。それはいいのだが、例えば駅長室には宿直の駅員が常駐しているはずではないのか? 駅長室の明かりは消えて、人の気配はまるでない。
 仮眠でもとっているのか、見回りにでも出ているのか……。
 適当なことを考えていた有里は、その時ハッと身構えた。駅構内に、電子アラームのベルが鳴り響いたのである。
 こいつは……地下鉄が駅に入るときの?
 耳をすますと、かすかにごぉごぉと地下鉄が走るような反響音も聞こえてくる。
 回送か?
 終電後も、点検所に向かう列車や工事関係者の運搬用に回送列車を走らせることはよくあるだろう。しかし、構内のアナウンスはそれを否定していた。
“最終列車が入ります。お乗り遅れのないように願います。”
 酔ったうえの幻聴などではない。アナウンスには独特のアクセントがあり、妙なノイズが混じり込んでいたが、深く考えている暇はなかった。ホームに、煌々と明かりを灯した列車が滑り込んできたのだ。
 有里は慌てて定期を改札機に突っ込もうとしたが、稼動していないのか挿入口は閉じられたままだった。あたふたする間に列車は停止し、ドアが開いた。有里は自動改札をまたぎこえ、列車に向かって走った。これを逃せば地下道から抜け出る手段がなくなる。定期なのだから無賃乗車にはなるまいと、酔っぱらいなりにまともな思考を巡らせつつ列車に飛び乗った。一方で、電源が落とされた自動改札機に疑問が湧かなかったのも、酔っているがゆえだろう。
 どこか寂しげなベルとともにドアが閉まり、列車が動き出した。明るい車内にほっとしたのもつかの間、有里は車内の光景に不審気な表情を浮かべた。
 誰もいない。
 ゆっくりと移動し、隣の車両をうかがう。座席は全て空で、列車の揺れにあわせて中吊り広告や吊り革が一斉に揺れている。漠とした不安を抱え、前方の車両へと少しずつ移動する。どの車両にも乗客はいない。いかに遅い時間とはいえ、最終列車には結構な乗客がいるものだが、この列車には誰一人乗っていないようだった。
 有里を除いては。
 そうこうするうち、列車は次の駅へとトンネルを抜けたが、当たり前のように停まることなく駅を通過した。
 やはり回送か? まずいな。適当な駅で停めてもらわないと、どこまで連れて行かれるか……。
 ふらつきながらも、有里は先頭車両へと向かう。運転手と直接交渉し、停車してもらうしかないと判断したのだ。
 無人の車両は何両も続いた。まるで無限に続くかのような車両移動は有里の酩酊感を刺激し、目の前がぐるりと歪んで頭痛がひどくなる。
 ……二日酔いか。
 吐き気を抑え、ようやく先頭車両にたどり着くと、有里は運転席のドアをノックした。運転席には制帽を被り、制服を着た運転手がちょこん、という感じで座っているのが見える。だが、ノックへの反応はない。
「すみません! 間違って乗っちゃいました!」
 本来なら誰も乗っていない車両であろうから、ノックぐらいでは気がつかないのかもしれない。有里はドアを強めに叩き、大声で語りかけた。が、まだ反応はない。というより、ピクリとも動かない。
 くそ、酔っぱらいだと思ってバカにしてやがるのか?
 有里は腹を立て、ドアを勢いよく開くと「おい、聞こえてるだろう! 返事ぐらいしろ!」と運転手に詰め寄った。運転中であるという意識は酔いのために麻痺している。
 再度声をかけ、運転手の肩に手をかけた途端、ぐらり、と制帽が床に落ちた。運転手の首ごと。
 転がった首は完全に干からび、髑髏に皮が張り付いただけのミイラのようになっていた。
 最初は何がなんだか理解できなかった有里だが、転がった首の虚ろな眼窩と目が合うと、運転席のドアに背中を張り付かせて「ひ!」と叫んだ。
「ななな、なんだ?」
 酔いは完全に抜けていた。思わず前方を見る。考えれば、この列車は運転手のいないまま走っているのだ。カーブにでもさしかかったら、と咄嗟に思ったのだが、しかし……。
 前方に、レールはなかった。フロントウインドウの向こうに広がっているのは、ただ闇ばかりだ。
 こいつは……どこを走ってるんだ?
 有里はわけが分からず、それでも本能的に後方へ逃げようとした。が、窓越しに車両後方を視界に入れるや、全身が硬直した。
 車両内は、先ほどとは一変していた。
 たくさんの乗客がいる。
 皆、きっちりと座席に座っている。
 骨と皮だけのミイラが。
 老若男女、様々な年格好をしたミイラが、まるでカタコンベのように車内の座席にびっしりと詰め込まれ、座っていた。
 今度こそ、有里は声を限りに絶叫した。
 痛む頭を抱え、酔いが醒めなければよかったのに、とおのれを呪いながら……。

<了>

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