はないちもんめ


 濃い霧の中を、ぼんやりと彷徨っている。いや、漂っていると言った方がいいかもしれない。疲れているのに、躰は奇妙に軽く、足元には地面の感覚がない。
 霧はひどく熱く、まるで熱砂の中に生き埋めにされているように重苦しく圧迫する。早くここから抜け出したいが、澱んだ熱さの中では思うように身体が動かせない。
――かーって嬉しいはないちもーんめ。
 背後で子供の声がした。振り向くと、ピンクのワンピースを着た髪の長い少女が、霧の中にぼんやりと浮かんでいる。
 突然、少女はくるりと反対を向いて、走り出した。
――待って!
 思わず手を伸ばしたところで、京子ははっと目が覚めた。病院のベッドの上だった。
 まず目に入ったのは、少し黄ばんだ白い天井と、薄汚れた蛍光灯のランプ。程なく消毒液の匂いが鼻をつく。
「ああ、気がついたのね」
 落ち着いた女性の声が聞こえ、反射的に起きあがろうとした途端、踝のあたりにナイフで刺されたような激痛が走り、京子は思わずうめき声を上げた。
「後藤京子さんですね。まだ動かない方がいいですよ」
 京子が顔を上げると、彼女と同じ、二〇代後半くらいの女性と目があった。白衣に長い髪を無造作に束ねただけで、化粧気もまるでなかったが、整った品のある顔立ちにはそれが似つかわしく見えた。
「私……確かビーチからホテルに戻る途中で……」
 まだ朦朧とする頭で必死に思い出す。ちょっと近道をしようと、草むらの中を突っ切ったのがまずかった。突然右足首に灼けるような痛みを感じ、そのまま意識が遠くなった。独身最後の贅沢と思って、奮発して沖縄の小浜島までリゾートに来てみたが、とんだ旅行になってしまった。京子は舌打ちした。
「ハブに噛まれたんですね。倒れているところを偶然地元の人が見つけたんです。今年は雨の影響かハブが大発生しちゃって、あなたみたいな旅行者だけでなく、地元民も結構被害に遭ってるんですよ」
 見渡すと、五床あるベッドのうち、京子のも含めて三つが塞がっていた。四〇代と七〇代くらいの男性が二人、農作業の途中で襲われたような格好で寝ている。
「猛毒だから、昔はほとんど助からなかったらしいけど、まあ今は抗毒血清がありますから」
「お医者様はあなただけ?」
「ええ。今日は私だけです。スタッフは三人ですが持ち回りなので。田舎の小さい病院だから、看護婦も週三日しか来なくて。不便でしょうが、少し我慢してくださいね」
「あなた、島の方?」
 京子は否定されることを予想しながら訊いた。彼女の垢抜けた容姿や、言葉のイントネーションから、都会育ちの洗練さを京子は感じ取っていた。
「いえ、六年前こちらに移ってきました。もともとは東京育ちなんです」
「あら、私も東京なの。奇遇ね。転勤か何か?」
「自分で希望したんです」
 京子はこの女医にますます興味を惹かれた。まだ若く綺麗な女性がこんな僻地にわざわざ自分から赴任することに、不穏な匂いを感じ取ったのだ。不倫か、あるいは泥沼の果ての失恋、そんなところか。
「ずいぶん思い切ったのねえ」
「まあ、成り行きで何となく」
「勇気があるのねえ。普通だったら色んなしがらみを断ち切れなくて、とてもできないと思うけど」
 京子は上目遣いに話しかける。興味はあるが、かといって下世話な好奇心を見透かされるのは嫌だった。単なる世間話の延長線、というスタンスを保ちながら、相手のプライバシーに慎重に切り込む。こういう探りをいれるのは京子の得意とするところだった。
 しかし相手は京子の追及をさらりとかわして、
「少し眠った方がいいですよ。今は単に小康状態なだけですから」
 と言うと、他の患者のベッドに移ってしまった。

 京子は再び夢の世界を漂っていた。
――あーの子がほしい。あーの子じゃわーからん
 ああ、またこの声。いや、今度はもっと大勢の少女がはないちもんめをしているようだ。そして一番高らかに響いているのは、確かに子供の私のもの……。
 次に目が覚めた時、陽はすでに傾き、病室は濃いオレンジ色の光で満たされていた。まだ夢の中にいるような浮遊感を、京子は覚えた。二人の患者の姿は既になく、寝乱れたベッドがこの部屋を廃墟のように荒んで見せていた。
「……今、子供の頃の夢を見たわ」
 沈黙が重たくて、思いつくままに、背中を向けたままの女医に話しかける。
「後藤さん、小さい頃はどんな子でした?」
 女医からのいきなりの質問に、京子は少し困惑した。
「ちょっと気の強い、普通の女の子だったと思うわ……それより少し水を貰えるかしら、何だかひどく熱くて……」
 先刻より症状は悪化しているようだった。しかし女医は彼女を無視して喋り続けた。
「私は小学校の時、ひどい苛められっ子だったの。今思えば、他愛もない嫌がらせなんだけど。無視するとか、上履きを隠すとか……でも、子供の私には、毎日毎日、バラバラにされている気分だった」
「ねえ、それより水を……それと痛み止めも……」
 噛まれた傷の痛みが更に激しくなっている。踝の辺りがどくどくと、破裂しそうなほど激しく脈打っているのが分かる。
「そのせいか、歳をとってからも他人が怖くて。だから、こんなところに引きこもったんだけど」
「お願い……助けて」
「京子ちゃん、まだ私のこと思い出せない?」
 彼女が振り向いて言った。夕陽がスポットライトのようにその顔を照らし、白っぽく浮かび上がらせる。
 その瞬間、京子は激しいめまいと共に記憶が堰を切って溢れてくるのを感じた。
――さっきの夢の、ピンクのワンピースの少女。
「……麻美ちゃん?」
 京子は震える声で訊ねた。角田麻美は小学校の時のクラスメートだった。
 麻美の何が気に入らなかったのか、今の京子には全く思い出せなかったが、他の女子達も麻美を快く思っていないことを敏感に嗅ぎつけて、さりげなく、少しずつ、彼女を孤立させ、執拗に苛め続けたことは覚えていた。
「あーの子がほしい、あーの子じゃわーからん」
 麻美が楽しげに唄う。その声と、夢の中で聞いた声が、オーバーラップして京子の耳に響く。
 普通の苛めにそろそろ飽いた頃、京子が思いついた遊びだった。
 クラスの女子全員に、校庭ではないちもんめをやろうと持ちかけた。麻美にも声をかけると、罠とは知らずに、初めて誘われた嬉しさを隠そうともせず、遊びの輪に加わってきた。
 最初のうちは麻美も嬉々としていた。が、なぜか自分のいる側ばかりが負け続け、減り続けることに次第に首を傾げ、そして最後の二人になった頃、ようやくこのゲームの真意を理解した。
 麻美ではない方の名前が呼ばれ、その子がじゃんけんに負け、長い方の列に交じると、それが合図とばかりに女子が一斉に声を挙げた。
――麻美ちゃんは、いーらーない!

 ベッドに横たわる京子の顔の真上で、血清の小さなアンプルをちらつかせながら、麻美が優しく囁く。
「これ、何だか分かるわよね?」
 京子は答えなかった。答えようにも、痛みと熱とで声が出なかった。
 魚のように口をぱくぱくと動かす京子に、麻美はにっこりと微笑むと、手を顔の上からどけ、アンプルを床に落とした。
 カシャ、とガラスがリノリウムに当たる涼しげな音のすぐ後に、ペキッとガラスを踏み割る音がした。
「京子ちゃんは、いーらーない」
 薄く笑った麻美の口元が一瞬、目に映り、京子は暗い眠りに落ちていった。
 

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