英雄は復讐を懼れる


 その日は明るいブラウンのTシャツと膝下までの長さの濃緑色の短パン、それに靴下とスニーカーだけしか身につけてはいなかった。腕はもちろんむき出しだし、脚も、靴下を靴のへりまで押し下げていたので膝下から足首までむき出しだった。
 日曜の午後、遅い昼食を取るため久しぶりに駅前の牛丼チェーン店に行くつもりで一人住まいのアパートを出た。七月も終わりに近いというのに前日までは梅雨が未だ天に留まり、陽光に餓えるほどの冷夏の折浮かない日々を送っていたが、今日仰ぐ空には青い輝きがあった。白雲よりも青空の面積の方が大きいようだった。雲は輝くほど白く、形はくっきりと青い稜線に切り取られ、その、何ものも表さない無造形の造形には目を見張るべき美があった。太陽は雲の背に隠れ日射しの強烈さはなかったが、それでも私のなまっちろい肌を焼く気配はあった。丸焼きにされる豚がくるくると焼かれやがて狐色に変わっていくように、熱線は私の肌をちりちりと焼いた。待ち望んだ日光はどこか痛みを伴いつつも心地よいものに感ぜられた。
 牛丼屋はそこそこ混んでいた。街に人が出てくる日曜だからこんなものだろうと思いつつ、透明なガラスの自動ドアを入り、どこに座ろうかと席を探す。いつも座る三人がけのカウンターには既に二人先客があった。奥の長方形のカウンターにも、こちらに背を向けて二人座っていたが、その二人の対面のカウンターには誰もいなかった。すぐ後ろがトイレになっているのが気になったが、私はそこに進み、端から二番目の席に着いた。入ってきた自動ドアが五メートルほど向こうにあり、店のそとを通る人の流れも、さらに店のなかと厨房のすべても見渡せた。牛丼を頼むつもりだったが、土用の鰻、と壁に貼られたポスターが宣伝文句を歌い上げていたので、せっかくだから鰻丼を頼んだ。従業員は冷水のコップを置くと、はい、といって厨房にさがった。店のなかには十二人の客がいた。席の三分の一ほどが埋まっている。カウンター席についているのはすべて一人客のようだった。一言も言葉を発せず、どんぶりを味わっている。やはり鰻丼だろうか。十卓ほどあるテーブルには二人連れのカップルが三組いて、こちらは笑ったり、話し込んだりしつつ、どんぶりをあおっていた。私の位置から見ると入り口の自動ドアは右奥になるが、その反対、左奥のテーブル席には七十前見当の老爺が一人で座っていた。一人黙然と箸を動かす爺さんを見るのはあまり清々しいものではなかった。家族はいないのだろうか。そんな余計な心配をしてしまう。と、そこで鰻丼がきた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「はい」
 外食するときにはどこでも、いつでも行われるやりとりをしてから、山椒を鰻にかける。もう少し上等な店で食えば、このありきたりの対話は省かれるのだろうかと思いつつ、念入りに山椒を振る。鰻の味は山椒で決まる。この安物の鰻丼でも山椒をかけるだけで倍のうまさになるだろう。そう信じて多めに振った。鰻はうまかった。表面にはたれがしみこんで焦げ茶色に光っているが、箸で身を切ると白身が顔を出す。鰻は白身魚だということをここで思い出す。味は表面のたれで決まるのだろう。しかし、白身魚だからこそ濃いたれの味のなかにさっぱりした味わいがあるに違いない。
 ほとんど食べ終わり、セットでついてきたお新香をどんぶりにいれ、最後の一口を掻き込もうとしたとき、左足のアキレス腱のあたりがむずむずとかゆくなった。見下ろすと蜂がとまっていた。赤い靴下に後ろ足をかけ、皮膚に直接前足あたりをかけ、触覚をくるくると動かしながら、登り進んでこようとしている。黒と黄色の横じわが腹に刻まれており、黒の方がより面積を占めていて、テレビでみく見るスズメバチとは種類が違うなとは思ったが、しかし、その形状は紛れもなくスズメバチのそれだった。くびれた首とこし。そのくびれに区切られた頭と胸と腹、三センチはくだらないその体長。低く唸る羽音。
 その瞬間の私の心は複雑で表現しがたい。まず、不愉快であったのは間違いない。しかし、恐怖があったかといえば、それは感ぜられなかったように思う。また、感情とともに、理性も働いていた。はじめ手で払おうかと右手を振り上げかけたが、それは思いとどまった。その後は、私はまるでロボットのようだった。脳のなかで感情は明らかに抑制されていた。目的に向かって進むロボットとして行動していたように思う。すなわち、自らの身を守ろうという思考と行動に脳の全能力が使われた感がある。私はおもむろに立ち上がると壁に向かってサッカーボールを蹴るように左足を振り抜いた。蜂は勢いよく飛んで壁に当たってドンと鳴り、ボトリといって床に落ちた。彼女(人を刺す蜂はすべて雌である)の重さを証明するごとく、音はトンではなくドンだった。ポトリでなくボトリだった。したたかに打ち据えられた彼女はしばし気を失ったようだった。私は自らの身を守るという目的を達成し、席に戻ろうと身を翻した。しかし、視界の隅に彼女が起きあがり羽音を唸らせつつあるのを見た。それは明らかに自らの生命力を快復しつつあり、このままにしておけばその場にいるすべての者に危害が及ぶ可能性があることが容易に得心された。既に危機を脱している私にとって、彼女にとどめを刺すことは、ある種の苦痛であった。命を奪う必要まであるのか。一瞬間の躊躇。しかし、私はまたもロボットのごとく動き出した。私個人のものだった危機は今やここに集う十数人の危機となりつつある。その思いが心を満たしていたのは間違いないだろう。心は私の体外、胸の前辺りにあるかのごとくであった。この心に引っ張られて身体が動いていく。私は翻した身体をもう一度彼女に向かい直し、振り上げた右足で彼女の身体全部を踏みしだいた。長い瞬間だった。時間は止まっていた。そして彼女の命の時計も止まった。再び私の時間が動き出し感情を取り戻したとき、私は誇りを感じていた。彼女の死を悼む気持ちもあった。しかし、民衆の危機を救った英雄の気持ちとはこんなものだろうか。人殺しの悲しみのなかにも勝利の喜びを感ぜざるを得ない。勝利は毒薬だ人を狂わせる十分な毒薬だ。
「そこに蜂の死骸がありますから、拾ってやってください」
 私は店員にそう言ってから、残りの鰻丼を平らげて店を出た。
 後から調べてみるとこの蜂はヒメスズメバチであった。古来より、英雄はお姫様を救うのが仕事であったはずだが、私は彼女を殺してしまった。しかし私はあの日、自分が英雄たりうると信じた。艱難に巡り会い、迷いなく行動できたことこそ、その証拠であると思えた。しかし同時に昔幼少の頃に聞いた話を忘れられない。蜂は死ぬとき殺した者に印をつける。それは仲間に復讐してもらうためだと。彼女を踏み殺した靴は今も玄関に置かれている。

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