身代わり辻
                         

 夏の夜に身代わり辻を通ってはいけない。あの事が起こるまで、それはただの迷信だと思っていた。
 
 塾へ行った弟を迎えに母が出て行ったのは三十分ほど前のことだった。
 午後九時半。居間で寝転がってテレビを見ていた私の耳に微かにすすり泣く声が聞こえた。驚いて身体を起こし、振り向くと襖が半分ほど開いていて薄暗い廊下に弟の亮太が立っているのが見えた。亮太の顔は真っ青で身体が細かく震えている。
「どうしたの? 亮太。お母さんは? 一緒に帰って来なかったの?」
 亮太はのろのろと居間に入ってきた。何か言いかけて口を閉じ、舌で唇を湿らせるとようやく言葉を搾り出した。
「……いないんだ、お母さん。消えちゃったんだ。あの、身代わり辻のところで」
「消えちゃった? 嘘でしょ? そんなの、だって……だってそんな馬鹿なことあるわけないじゃない!」
 亮太がからかっているんだろうと思ってちょっとムカついて声を荒げてしまった。
 私は居間から廊下に出ると玄関へ急いだ。母は何か用事があってちょっと遅れているだけなのに違いない。引き戸を開け外へ出た。だが右を見ても左を見ても道路には人の気配はなかった。
 家に入り、引き戸を閉めて鍵を掛け、胸に手を当てて深呼吸をひとつすると居間に走って戻った。亮太は畳の上で膝を抱え込み、すすり泣いている。
「姉ちゃん。僕……僕はどうしたらいいの? ねえ、あれ、何だったんだろう? 全然分からないんだよう」
 弟は小学三年生。私は中学三年生の姉としてしっかりしなければ。混乱している亮太を両手で抱き抱えて顔を見つめ、そっと囁いた。
「いい? 何があったのか、落ち着いて初めから話してごらんなさい」

 僕、いつもと同じように駅の待合室でお母さんを待ってた。僕の他に待合室には黒いワンピースを着た髪の長い女の子が座っていて、膝の上には白い布で包んだ四角い箱を抱えていた。ずっと俯いていて顔も見えなかったんだけど、急にその子は顔をあげて笑って僕を見たんだ。その顔を見たとたんに背中が水を掛けられたみたいに冷たくなった。なんだか凄く怖くなって目を逸らしたら、お母さんが待合室に入ってくるのが見えた。
 僕はお母さんと手を繋いで駅を出る時に、そっと後ろを振り返ったらその子はいなくなってた。お母さんが「遅くなったから近道をしましょう」って言った。それで、いつもは通らない身代わり辻のところを通ったの。お母さんが「うちへ帰ったら、冷たいジュースを飲みましょうね」って言って、二人で角を曲がったんだ。そしたら……。
 そしたら、お母さんが凄い悲鳴を上げたんだ。僕がびっくりして横を見たらお母さんが消え始めてた。頭からどんどん消えていって、僕を握ってた手も消えて、それで……気が付いたらお母さんがいなくなってた。僕は「お母さん!」って何度も呼んで探したけれど見つからなかったんだ。

「姉ちゃん。お母さんはどうしちゃったのかな?」
 私は亮太の話が信じられなかった。人が目の前で消えてしまうなんてことがあるわけない。
「大丈夫よ。私が辻のところまで行って見て来るから、あんたは家でお留守番していなさい」
「いやだっ! いやだようっ! 置いていかないで!」
 亮太がそう言って私にしがみ付いてきた時、突然テレビが消えた。と同時に、居間のガラス窓が少しずつ開き始めた。窓の桟には白くか細い指が掛かっている。がた、がた、と音を立てながら窓がぎくしゃくと三十センチほど開いた時、外の闇から二本の腕が部屋の中へ泳ぐように入って来た。指には先日買ったばかりの銀の指輪。あれは母だ。窓の傍に駆け寄って思い切り手を引っ張った。部屋の中に肩が入り頭が入って来た時、私は悲鳴を上げた。母には顔が無かった。目も鼻も口も無い顔に捩れた髪の毛が纏わりついていた。私は思わず手を離してしまい、その瞬間、母の後ろから小さな黒い腕が母の胸に抱きついて凄い勢いで闇の中に引き戻してしまった。 激しい動悸がして、しばらく動くことさえ出来なかった。身体を無理やり動かして外を覗いたが誰もいない。窓を閉めて鍵を掛け、警察に電話をしようと受話器を取り耳にあてた。1、1、0、指が震える。呼び出し音は聞こえなかった。聞こえてきたのは吹雪のような風の音。そしてくぐもったような小さな声。助けて……助けて。それは確かに母の声だった。私は思わず大声を上げていた。
「お母さん? 何処にいるのっ!」
 母の声は遠くなり近くなり、助けてと繰り返し、そして消えてしまった。受話器を置いて警察に掛け直したが、今度は何の音もしなくなった。亮太は身体を丸め、がたがたと震えている。これ以上何か起きたらおかしくなってしまうかもしれない。電話を掛けるのを諦めて、私は弟を隣の家に連れて行き言い訳をして預かってもらった。
 帰りたくはなかった。でも、もう一度電話を掛けてみようと家に戻った。隣の家で掛けたほうがいいのだろうが、こんなことを他人に聞かれるのは嫌だった。居間に入った時、廊下に何者かの気配がした。
 台所の方からヒタヒタと廊下を歩く足音が次第に近付いてくる。足音は部屋の前を通り過ぎて玄関へ向かう。私は襖を開け、後を追って廊下を曲がった。
 玄関に少女が立っていた。白い布に包まれた箱を抱えた闇のように黒いワンピース。少女は私を見つめて冷たい笑みを浮かべた。
『ありがとう。もうこれはいらないわ』
 そして腕に抱えていた箱を廊下に置くと、閉じたままの引き戸をすり抜けて出ていった。私は急いで後を追ったが、少女は足が速くて見失わないようにするのが精一杯だった。

 いつの間にか私は身代わり辻に来ていた。十字路になった辻はひっそりと静まり返り、どの道筋に目を凝らしても塀と街灯が見えるだけで人っ子一人見えない。
 じっとりと身体に纏わりつく闇に耐えられなくなり、私は頭を抱えて辻の真中にうずくまった。
『ママ。やっと見つけたわ。早く帰りましょう』
 唐突に響いてきた声に顔を上げると、遠くに黒い服の少女の後姿が見えた。誰かと手を繋いでいる。それは確かにさっき家を出て行った母の後ろ姿だった。私は無我夢中で後を追い、とうとう二人に追いつき、母の腕を掴みながら叫んだ。
「お母さんっ! 行かないでっ!」
 母がゆっくりと振り向いた。だがその顔は無表情で、母のものではなかった。その人は私をちらりと見ると直ぐに少女の方へ向き直り、優しく笑いかけた。
 掴んでいた腕がするりと私の手から離れ、二人の姿は闇に溶けるように消えていった。

 どうやって家に帰り着いたのかも覚えていない。気が付くと私は玄関に立って箱を見つめていた。震える手を伸ばして布を開き、四角い木の箱を開けると、中には白い小さな骨壷が入っていた。骨壷の中は空だった。が、次第に私の頭の中で何かが満ち始め、そして気付いた。どうしたら母を取り戻すことが出来るのかということに。私は二階の自分の部屋へ上がり、身支度を整えた。

 待合室には誰もいない。電車が着いたのか、改札の方から数人が歩いてくるのが見える。
 私の正面に幼い少年が座った。しきりに外を気にしていた少年は、やがて私の方に目を向けた。
 黒いワンピースに白い布の箱を抱えたまま、私は少年ににっこりと微笑みかける。
 身代わりの母を手に入れるために。

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