隙間


 見られている、という感覚はあった。
 美里は、そのたびに背後を振り返り、カーテンを開き、ドアを開け、衣服の詰まったクローゼットの中を確認する。やはりというか、当然ながらそこには誰もいない。美里としても、それはわかっているのだが、確かめずにはいられない。誰もいないことを自分の目で確認して初めて安心し、再び受験勉強に戻る。
 新しい家に引っ越してきてからまだ一ヶ月だが、儀式のような繰り返しがもはや日常のようになってしまっている。
 築一年に満たないこの家が、格安の値段で売りに出されていると知って、美里の両親は飛びつくように契約を交わした。借りていたマンションの部屋が手狭となり、美里が高校、弟の善之が私立中学をそれぞれ受験するタイミングもあって、少しでも安くて広い物件を探していた矢先のことである。
 なんとなく、イヤな予感はしたのだ。小さいながらも庭付き二階建ての新築に近い掘り出し物件が、そんなに安いなどとは。
 両親も、特に母親は気になったのか、近所にこの家で何か事件や事故がなかったかと聞いてまわったようだ。が、結果はそんな事実も噂もなく、釈然としないながらもようやく一安心したという。
 善之は、単純に自分の部屋が持てて喜んでいたし、美里としても勉強をする環境がようやく整った、という気持ちの方が勝っていた。多少家鳴りがしようと、何かの気配があろうと、かまいはしないと思っていた。
 しかし、この視線は……。
 いつからだろう、二階の部屋でくつろいでいるとき、CDを聴いているとき、本を読んでいるとき、勉強をしているとき、いや眠っているときでさえも、不意に何者かに見つめられているのを感じるようになったのは。最初は、弟と部屋が別々になったせいで、逆に神経質になっているのかと思っていた。が、視線は日増しに強く、鋭くなってきているようなのだ。
 母親にも相談してみたが、一笑に付された。父親の方は「せっかくおまえ達のために、ない金はたいて買ってやったのに!」と怒り出す始末である。確かにその通りなので、美里としてもそれ以上口を出すわけにはいかなくなってしまう。
 だが……。
 今夜も、勉強をし始めてすぐ、背後から刺すような視線を感じた。さっと振り向いたが、誰もいない。
 閉めたはずのドアがわずかに開いていたが、廊下を覗いても誰がいるというわけでなく、しんとしている。美里の部屋のドア側には、CDラックやクローゼットが置かれているが、人が隠れるような場所はない。念のため、いつものようにクローゼットも開けてみたが、いつものように誰もいない。
 都市伝説のひとつに、他人の部屋に潜む殺人鬼の話があった。殺人鬼はクローゼットやベッドの下に入り込み、息を潜めて部屋の住人をじっと見つめているのだ。
 だが、この部屋にはそもそも人間が隠れられるようなスペースはないのだ。クローゼットは頑丈なものではなく、人が入れば底が抜けてしまうだろうし、ベッドは下半分が引き出しになっているタイプなので、入り込むことはできないのである。
 美里はため息をついて参考書に頭を戻したが、なかなか集中できない。卓上時計を見るともう午前二時近いが、美里はまだ、今日の勉強予定を半分もクリアできていなかった。そんなことがここ何日か続いており、美里はさすがに苛立っていた。
 こんなんじゃ、勉強どころじゃないよ。……あたし、どうなっちゃうの?
 美里は、思わず頭を抱え込んだ。
 その時。
 今までにない、刺すような視線を背中に感じ、美里の全身は怖気立った。
 やっぱり、見られている!
 足先から背中を抜けて首筋まで、鳥肌が駆け上っていくのがわかる。特に、首筋にはチリチリと痛いほどの気配がある。鼻筋に、嫌な汗がにじみ出てきた。参考書を持つ手が、シャーペンを握る手が震えた。カチカチと鳴るのを防ぐために、無理矢理歯を食いしばる。
 しばらく、その体勢のまま固まっていたが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
 恐る恐る、再度振り返ってみる。ドアは先程閉めたため、ぴたりと閉じている。ドアの左側には小さな棚と、その上にCDコンポ。その左にCDラック。さらに左にはクローゼットがあるが、何も異常は感じられない。クローゼット左には天井まで届くほどの書架があり、その横には足側を壁に接する形でベッドが置かれている。
 何もない、誰もいない……はずだ。
 美里は、無意識のうちにシャーペンを握りしめたまま立ち上がった。ふっ、と目を逸らしたくなる。今夜の視線はなんだか強烈だった。今まで以上に、得も言われぬイヤな気配がある。頭も、そのせいかズキズキと痛み出していた。
 どこ……?
 薄暗い部屋の中、美里は目を細める。右から左へ、ゆっくりと視線を移動させる。
 かすかに……かすかに白いものが見えた。
 クローゼットと書架。その隙間に。
 10センチもない、わずかな隙間だ。そこに、白くて丸いものが三つ光っているように見える。
 美里は、一歩二歩震える足を踏み出し、やや身をかがめて目を凝らした。
 細めていた目を、大きく見開く。
 目!
 言葉が喉につかえて出すことができず、美里の身体は硬直した。
 目だ。
 目が浮いていた。真っ暗な隙間の奥から、三つの目が美里を見つめていたのだ。黒目の部分が上下左右にてんでに動き回って、美里を捉えている。
 それらはむき出しの眼球ではなく、人間の眼窩にはめ込まれた状態の目のようだった。その証拠に……。
 目がパチパチと“瞬き”したのだ。闇色に。
 それが引き金になったか、美里はか細い悲鳴を上げながら、持っていたシャーペンを隙間に向かって突き出した。
 一度、二度、三度。
 ぐしゃり、という感触とともに、人のものとは思えない絶叫が響き渡り、家中全体がびりびりと震えた。同時に美里の意識は途切れた……。


 気がつくと、朝になっていた。
 美里は床から身を起こし、ぼんやりと部屋内を眺めた。時計はまだ六時前を指していたが、周囲は明るくなっている。
 シャーペンはまだ右手に握り込まれていたが、何ら変わったところはなかった。
 例の隙間を覗き込む。薄明かりの中に、奥の壁が見えるだけだった。壁も床にも何もない。
 一体……何だったんだろう。
 本当に、宙に浮かんでいる目だったのか。目の霊だったのか。それとも何か別の魔物だったのか。あるいは、あれは本当にあったことなのか、神経衰弱から見た夢か幻覚のようなものだったのか……。美里には判断できなかった。
 とりあえず、顔を洗って頭を冷やそう。
 よろよろと美里は立ち上がると、長時間硬い床で横になっていたために痛くなった首筋を揉みながら、一階へ降りる。
 洗面所に入ろうとすると、リビングの食卓に、両親と善之が腰掛けているのが見えた。
「あ、おはよう。みんな今日は早いね。なにか……」
 言葉を継ごうとして、美里は凍りついた。
 美里を振り向いた三人は、各々片目に眼帯をしていた……。

<了>

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