約束


 卒業前、バイトで溜めた金で中古の軽四を買った。就職活動にも便利だろうと思ったからだ。ところがその機動力も空振りのまま、最後の夏休みになった。ぶらぶらしていても仕方ないので、結局、サークルの合宿に遅れて参加することにした。
 就職も決まらないで、気晴らしのドライブ用にしか役にたたない車に乗って、山奥を抜けた。途中の国道を少しはずれたところに、たまたま僕の故郷がある。両親は早くから都会に移り住んでいるから、田舎といっても家を継いでいるのは叔父夫婦である。ついでに寄ってみることにした。
 助手席に乗せた奈緒子も他人ごとのように「別にいいけど」という。彼女は同じサークルの同期で、構えて付き合っているわけではないが、最近は多くの時間を一緒に過ごしていた。
 突然訪ねると、叔父夫婦は目を丸くして驚いた。
「サトシ、大きくなったなあ」
 子供じゃないんだから。
 いいながら朽ちたようにくすんだ大構えの敷居をくぐった。たったふたりで暮らすには大きすぎる屋敷だ。
「その人は?」
 と、叔母が優しい笑顔で尋ねた。
「友達」と答えると、奈緒子はぺこりと頭を下げた。
 この年で、まるでガキのような口のききかただ。自分でもわかっているが、そういう接し方が彼らを喜ばせるということも知っている。 
「泊まって行くんでしょう」
「いや、二三時間休ませてもらったらもう行くよ。今日中に向こうの国民宿舎でみんなと合流したいんだ」
「それなら、夕ごはん食べていけるわね」
 叔父が、「叔母さんは、お前が来た早々、帰る話ばかりしている」と笑いながらいった。ずっといてくれと、いわんばかりの愛情が溢れている。

 そこは、都会の猛暑とはまったく別世界の場所だった。
 僕は広い居間の真ん中でひんやりとした畳に頬を当てて横になった。横で奈緒子が膝を崩して休んでいる。
 障子を開け放した縁側から、透明な空気を通して濃紺の山々の稜線がはるかに見渡せた。雲が少しずつ厚くなってきた。
「いいところね」
「うん」
「叔父さんたち子供はいないの」
 もちろん叔父夫婦が僕のことを本当の子供のように可愛がってくれるのには理由がある。昔、小さい子供を亡くしたせいだ。同い年のひとり娘だった。
 僕はふと立ち上がって、隣の仏壇の引き出しから古いアルバムを取ってきた。小学生まで住んでいた家である。勝手はよく知っていた。
 再び畳に転がってアルバムを開いた。その横で奈緒子が覗いた。
「写真も残ってないな。でも、僕は小さかったけど、よく覚えているよ」
「好きだった?」
「まさか、子供だぜ」
 奈緒子の言い方が可笑しくなって思わず笑った。
 この下の村道に、ふたりでよく自動車を見に行った。田舎の道に、車が走ることなどたまにしかない。それを道脇の草の上に一日中座って待った。そんなことがふたりの遊びだった。
 大きくなったら、僕が車に乗せてやる、と約束した。そんな些細なことはよく覚えていた。だが、彼女の名前や顔は思い出せない。その子は、あるとき突然、行方不明になった。村中でさんざん探したが、結局山奥で死体になって見つかったらしい。知らない車に乗せられてどこかへ連れていかれたという噂も聞いた。
 今となっては、それらは全部、遠い記憶の中にある。夢のようにあやふやなこともいくつかあるが、あらためて両親や叔父夫婦に確認することでもないと思っている。
 どうしてこんなことを思い出すんだろう。
 時どき帰ってくると、その度に心の底にたまったものを穿り出されるようなきっかけが見つかる。田舎というのは不思議なところだ。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと辺りがどんよりと暗くなっているのに気づいた。垂れ下がった空。黒い密雲が駈けるように流れている。奈緒子がのろのろとした仕草で縁側に立ち、まるで呪文でも唱えるように「雨が降るよ」といった。
 ぐずぐずしていられないようだ。スイカを盆に載せて入ってきた叔母には申し訳なかったが、碌な話もしないで慌てて食べた。厚い雲の陰が、その理由を知った叔母の横顔をさらに暗くした。ごめん、と僕はおどけたように両手を合わせた。
「また来るよ」
「嘘ばっかり」
 叔母は唇を尖らせ、すぐに叔父を呼びに出た。僕たちのために、川魚を釣りにいっていたらしい。釣果もなく慌てて帰ってきた。
「もう行くのか」
「うん。土砂降りの山道なんか運転したくないからね」
 ところが、外に出て車の前まで来たとき、奈緒子が突然、「この車には乗りたくない」と奇妙なことをいい出した。
 そうしているうちに、ぽつぽつと雨が降ってきた。見送りに出てきた叔父夫婦も驚いたように顔をしかめた。
「何いってんだ」
「この車、変なものが乗っているわ」
「変なもの?」
 彼女の霊感癖がこんなときに出てこようとは思いもしなかった。僕は苛々しながらいった。
「馬鹿いっていないで早く乗れよ。雨が強くなってきたじゃないか」
「いやよ、おそらくこの近くの地縛霊だと思うわ。助手席に座っているのが見えないの」
「見えないよ」
「その席には乗れないわ」
 僕は車に近づいてフロントガラスを覗いてみた。何もいるはずがない。運転席を開いた。黒い淀んだような空気を感じ、一瞬息ができなくなった。だが、炎天下にずっと駐車しておいたのだ。熱気が篭っているのは当然だった。
 運転席に座ると、叔父が外から声をかけた。
「もう少し待ってみたらどうだ。通り雨ならすぐ止むぞ」
 雨脚が強くなってきた。僕は構わずエンジンをかけた。
 奈緒子はびしょぬれのまま、外で震えている。叔母がその肩に傘を差しかけた。叔父が心配そうに外からガラスを叩いた。
 と、突然、つぶてを投げつけるような雨粒が落ちてきた。
ボンネットに落ちた雨は太鼓を乱れ打つように踊り狂い、その激しさでガラスの向うの視界が消えた。凄まじい雨量に一瞬鼓膜が痺れ、海中に投げ出されたかのような錯覚を感じた。
「なんだこの雨は」
 戦慄はそればかりではなかった。
 助手席に、黒い影がぼんやりと浮かび上がってきたのだった。
表情もわからない黒い影。それは、あの死んだ女の子に違いない。大きくなったら車に乗せてやるよ、と僕は確かに彼女と約束した。
 ドアを開いて外に飛び出ればよかった。しかし、もう遅い。ハンドルを握った手が瘧のように痺れ、全身の感覚がなくなっていくのがわかった。
「助けてくれ。叔父さんたちの子供がいるよ。ここにいるよ」
 僕は叫んだ。
「お前のことを私たちの子供だといつも思っているよ」
 豪雨の中から、叔父の声がかすかに聞こえた。
「そうじゃない、女の子だよ。あなたたちの子供だ、僕のことじゃない」
「私たちに女の子はいないわ」
 叔母の声がはっきりとそう聞こえて、後はさらに大きくなった雨音に掻き消された。

 その間――不気味な影の塊は徐々にその異形を整えている。

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