あてどなく彷徨う
「甚さん、雨降ってるぜぇ」
亭主が俺のだした銭を引っ掴みながら言った。豆腐の田楽と冷酒でちょうど十文。居酒ができて田楽も美味ぇ豆腐屋だが、親父の愛想のねえ顔は、どうにかならんかねぇ。
薄汚れた暖簾を跳ねあげると、結構な降りだった。叩きつけるような雨が、闇を霞ませながら、泥と一緒に跳ね返る。真っ黒な空を見あげていると、そのまま吸い込まれちまいそうな気分になる。
傘はねぇが、待つのも癪だな。しょうがねぇ、走るか――俺は雨の中を駆けた。
雨が通り沿いの屋根を叩く音、俺がぬかるみをじゃばじゃばと走る音。それしか聞こえねえ。軒下目掛けて走り、少し雨をしのいではまた走る。
何度目かの軒下で、遠慮なく雨を降らす雨雲を睨みつけるうちに、ふと気づいた。いつの間にか若い女が横に居た。女は閉じた傘を振り、どちらかといえばあどけない笑顔で、
「こんばんは、どちらまで」
と訊ねてきた。大きな声じゃねぇのに、雨音にも消されず俺の耳に滑り込んでくる。透き通った声が腹の底へ甘ったるく染み渡った。
「あ、ああ、茅場まで」
女の柔らかそうな口元に見惚れて、情けねぇ声色になっちまった。
「あたしもそうなんです。もしよろしければご一緒していただけませんか? うっかりこんなに遅くなってしまって、心細かったんです」
縋るような目で俺をみあげる。二十ぐれぇか、少し幼顔だが佳い女だ。背中がぞくぞくして身震いしそうになっちまった。へへっ、どうやらそう悪い雨でもねぇようだ。
「――こう雨が続いちゃあ、俺みてえな大工は、おまんまの食い上げさ」
俺は傘の下で夢中になって喋った。女は時折相づちを打つ。俺が甚六と名乗ると、女は名を教えてくれた。お千代というらしい。お千代は濡れたような眼で俺をみる。黙り込んだらこっちがおかしくなっちまいそうになる。
「……ねぇ、甚さん」
小さな手が俺の右腕を引っ張った。お千代が顔を寄せて囁いた。
「誰かあとをつけてる」
俺は少し首を傾いで後ろをみた。(お武家さんか……)暗くてよくわからねえが、確かに二本差しだ。傘を差し、ひたひたとついてくる。
「いつからだい」
「実は甚さんと会う前からいたんです。それで恐くなって……」
そういやあ、お千代はずっと後ろを気にしてた。
「あたしなんだか怖くて。だから、頼りになりそうなお人をみつけて、つい……」
「そういうことかい」
はあ、話がうますぎると思ったぜ。
「だって、近頃辻斬りが多いでしょう。八つ蜘蛛だとか、目無しだとか、怖そうな名ばかり」
俺は生唾を飲み込んだ。辺りに人気はないし、あいつの足音がやけに耳に纏わりつく。そう言えば確かに近頃辻斬りが多い。手口になぞらえた通り名は、他にも『十文字』、『首捨て』、あとは……。
水が跳ねる音。ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ――野郎足を速めやがった。俺は舌打ちをして、「こっちだ」とお千代の手を引いた。ひんやりと冷てぇ手だった。辻を右に折れ、すぐ左へ。この辺りは眼ぇ瞑っても走れる。あの二本差しが辻斬りかどうかはわからねえが、気味が悪いのは間違いねぇ。
俺とお千代は一頻り走った。もう十分だ、こっちの息が上がっちまった。
「ふう。安心しな、お千代さん。もう追いつけや……」
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ――
(嘘だろ)
慌てて振り返る。闇の中からあの男の足が現れた。続いて傘も、刀も。間違いねえ、俺らをつけてくる。
「お千代、逃げるぞ」
息がどうとかは関係ねぇ、逃げるしかねぇ。何度角を曲がったか、何度転げそうになったか。俺は足元の縺れそうなお千代の手を引いて、俺の方がもっと縺れそうになりながら駆けた。振り返る、二本差しの影はねぇ。撒いたのか。俺は走りながら前を向いた――突き当りを左だ、右は行き止まり。
左へ。
でけえ影が行く手を塞いだ。居た。二本差し。いつの間に。
俺は心の臓が口から飛びだすかと思った。俺らが慌てて足を止めると、男が傘を放る。同時に俺の顔の横で何かが光った。白刃が雨を弾き、俺らがきた道を塞いでいた。
男が近づく。片目があった筈の場所には、土色をした肉の塊がある。残った眼が嗤う。
俺とお千代はじりじりと後退った。
「けっけっけっ」
男の嗤いに俺は凍りついた。このまま地の底に引きずり込まれるんじゃねえだろうか。そんな感じの嗤い声だった。
「目無しって知ってるか」
男が愉快そうに言う。俺の背中が塀に当たった。逃げ場はねぇ。俺は思わずお千代を背中に庇った。男は切っ先を俺に向けた。
「俺の眼は一つだ。お前らは何故二つある」
割けんばかりに口を左右に開いて嗤いやがる。「呉れよぉ、両方よぉ」
狂ってる――そう思った。殺されると思った。その時だ。俺の後ろからお千代が傘を投げつけた。
「ぐっ」
傘は男の顔に中った。俺の頭は真っ白になった。よろけた相手に体毎ぶつかる。相手の腕を掴んで、腰に残った脇差を引き抜いたのは確かだ。あとは――よく覚えてねぇ。
気がついたら俺は男の上に乗って、血塗れの脇差を握ってた。
「はぁはぁ……」
息が荒い。男は赤黒いぬかるみの中で果てていた。胸には幾つもの穴。いくら雨が降っても、その穴から赤黒いもんが後から後から滲んで消えねえ。何で俺が人を殺さなきゃなんねぇんだ。
「『目無し』ですよ、こいつは」
透き通った声が俺の胸を抉る。振り返ればお千代が何の表情も浮かべず見下ろしている。闇に溶けちまいそうなほど透き通った顔色で。
俺は野良犬みてえに喚きながらお千代に飛び掛り、そのまま塀に押しつけた。
こいつのせいだ、こいつのせいで俺は。血の滾りが収まらねぇ。そのくせ体中ががちがちと震えてる。
お千代はくすりと笑って顎をしゃくった。
後で音がする――ぴしゃぴしゃと。
俺は手足の先まで強ばらせながら、恐る恐る振り返った。だが、そこに目無しの死体は転がっちゃあいなかった。違う、立ってる。刀をだらりと下げ、とめどなく流れる血を滴らせながら、ゆっくりとこっちに近づいてくる。
「驚きました? 甚さん。恨みが残ると成仏できないんです。魂だけが延々と彷徨うんですよ」
俺は思わずお千代の腕を握ろうとした――だが無ぇ。お千代の腕が無ぇ。
「お前ぇ、こりゃぁ」
俯いたお千代がなんだか薄くなっていく。何処を引っ掴もうとしても、俺の手は空をきるばかりだ。
「あたしは『目無し』に殺されたんです。でもあいつが死んで、あたしの恨みは消えました。やっと逝ける」
お千代が顔をあげた。
――目が無ぇ、二つとも。
俺はその場にへたり込んだ。霞みのようになったお千代の顔は、両の目が抉り取られている。口元だけを綻ばせ、そして消えちまった。
「ぎゃぁ」
背中に激しい痛みが走った。目無しが袈裟懸けに斬りつけやがった。
「けっけっけっ」
嗤い声が響く。あいつは魂だけになったんじゃねぇのか。なんで斬られる、なんで死ぬほど痛ぇんだよ、俺は。
(恨みを残した魂はね、月のない夜だけ体を持てるんですよ。今宵のあたしのように――)
何処からかお千代の声が聞こえる。
(――それに痛みも感じます。ただ逝けないだけなんです、目無しも……)
振り向くと目無しのにやついた顔。片目をさも愉快そうに細め、ゆっくりと大上段に構える。
――目無しは俺がいる限り逝けねえんだ。じゃあ、俺はどうすりゃあいい。どうしたら逃れられる。
俺は激しく乱れる胸に手をやった。そしてようやく気づいた。
俺は胸から腹まで、ま一文字に斬り割かれていることに。
俺の腸(はらわた)がだらりと飛びだしていることに。
俺も同じなんだ、あいつと。俺を殺した目無しへの恨み。目無しの魂が彷徨っている限りいつまでも――。
(逝けないんですよ……甚さんも)
お千代の声がうつろに響き、俺の耳をすっとすり抜けていく。
(ありがとう、甚さん――あたしは逝かせてもらいます)
(了)
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